人は皆繋がっている。それを理解するには個を捨てる必要があるか。個を捨てたなら理解しているのは『私』なのか。
経緯-いきさつ-
先日友人に誘われて『experiments_lain』というアニメを観た。
繰り返し観ていた作品だけれども、今一度観ることで様々な気付きを得た。
それから日を開けず、『THE EGG』という話を知った。
アニメで得た気付きとこの話はごく自然にリンクした。
まるで今僕がそれを知るべきだと言うかのように。
lain-レイン-
このアニメをあえて説明する必要は今ではないと思うので省略する。
主人公であるレインは中学生の女の子---の肉体で存在しており、本人もまた自身を一般的な人間だと認識していた。
物語の後半、レインは自身が『肉体を与えられたプログラム』だと知る。
ショックを隠せない彼女に周囲の人々は別れの言葉と共に
「レイン、私はあなたを愛しています」
と告げる。
何故皆が『私はあなたを愛しています』と言ったのか。
それはレインという『人格』を形成する物に由来するのだと、僕は感じた。
彼女の人格は『人類の無意識の集合体』である。
ここで重要なのは『レインが全人類』なのではなく『全人類にレインが存在する』という定義である。
だからこそ、自覚できない無意識の領域にいる自分自身をレインに見て『愛して』しまう。
レインは決して人間として完璧ではないし、むしろ幼さや欠陥を強く描写されている。そんな劣っている部分、幼稚な部分を誰もが隠し持っているからこそ誰もがレインを愛してしまうし、同時にレインも完璧な人間にはなれない。
今回このアニメから受け取ったのは
『人は皆繋がっている』
という集合的無意識(第六感的ネットワーク)であった。
インターネットで世界中が繋がった。
けれどもそれは本当に『繋がった』のだろうか?
LANケーブルで、Wi-Fiで、衛星で。
見聞きできる距離でしか、インターネットでは繋がれていない。
あまりに容易く繋がれるせいで、僕らは本来の『繋がり』を見失っているのではないだろうか?
また最終話でレインは世界の全てから『レインという存在』を消去してしまう。それは自分というプログラムで周囲に悪影響を及ぼした罪悪感からであり、同時に周囲からもたらされる苦しみからの解放の為であった。
しかし、世界を書き換えるプログラムである彼女は唯一『レイン』だけは書き換えることができなかった。
ソフトウェアであるレインはそれを構築した『神様』でなければ改変できない。
独り取り残された彼女はその寂しさや悲しみに泣き崩れる。
集合的無意識に接続されながら、自我を失えずに意識の上では孤独である。
傷つけないし、傷つけられない。
その代償としての孤独は中学生の少女にはあまりに重すぎたのだ。
THE EGG-宇宙は卵-
僕がこれを知ったのはYoutubeの『Naokiman 2nd Channel』であり、全文を読んではいない。
『THE EGG』はウェブ上に掲載された短編小説であり、世界で愛されているという。
ある日交通事故により死んでしまった主人公は神と出会う。
神との対話の中で主人公は自身が生まれ変わりを繰り返しており、今後もそれを繰り返すことを知る。
しかし神から説明される輪廻転生は自身が知っているものと少しばかり違っていた。
「あなたはエイブラハム・リンカーン、アドルフ・ヒトラー、そしてイエス・キリストである」
未来ではなく過去にも転生することに疑問を持つが、神は
「宇宙は神を作る為の卵である」
と説明を続ける。
過去・現在・未来。
それら全ては初めから宇宙に存在する。
その全ての1人1人の生涯を体験することこそが神に必要である。
その時々で彼は彼自身を虐殺しているし、彼は彼自身から虐殺を受けることとなる。
誰かに行ったことは全て自身に行うことであり、誰かに行われたことは全て自身に行われたことである。
それを身を持って理解した時、宇宙という卵から孵り、主人公は神として初めて『生まれる』こととなる。
全てが自身であり、その全ては経験しなければいけない。
そのために宇宙という卵は作られた。
卵には1人(個)しか存在しないので、今別人に見えている『自分と自分以外』は全て『自分』の化身である。
これを現実世界に例えると、これを書いている僕は今読んでいるあなたにとってあなたの化身であり、僕にとってあなたは僕の化身ということになる。
僕は今これを書いているけれど、次、或いは以前に転生した時は読んでいるあなたになる。このnote自体を知らない人間にもなるし、飢餓で苦しむ外国の子供にもなるし、核のスイッチに手をかけているプーチンにもなる。
そして空爆によって犠牲になるウクライナ民にもなる。
その全てを体験し理解するまで輪廻転生を繰り返す。
加虐と被虐の全てを僕が僕に繰り返す。
悟りの境地に達するまで。それは、或いは個を体験し尽くして個と全の境界が無くなるまで。
個を分ける定義とは、何を体験し何を知るかである。
そう仮定した時、逆説的に全人類を体験して知った段階で個では無くなり全になる。
全知全能。それは正しく神である。
神側の事情により、神は神を沢山作っているらしい。
つまり僕という個も何れ全人類に輪廻転生をして全となり、卵から孵って神となるということだ。
僕にとってはあなたも、知りもしないどこかの誰かも、全てが僕である。
ブラック企業で働いて自殺する若人も、ホワイトカラーでセカンドライフを楽しむ老人も、今ここで心身を病み人生を詰んでいる僕も、こんな僕を作った母親も父親も、縁を切る程に憎くて恨めしい元兄も、サカキバラセイトも、マツモトチヅオも、ジョウユウも、サリンで死んだ人達も、後遺症に苦しむ人達も、その全てが僕なのだ。
厳密に言うならば、全てが僕というよりは全てを当事者として体験することになるモデルなのである。
僕は今僕という人間の人生を『体験』しているということであり、当事者でありながら第三者でもある。
そもそも宇宙という卵の中で行われているシミュレーションなので、在るのかは甚だ疑問であるが。
結論-新たな課題-
『lain』では『集合的無意識に於いて全人類の中に自分がいて、同時に自分の中にも全人類がいる』という全と個の境界線の揺らぎを得た。
『THE EGG』でも『そもそも全てが僕であり、僕は僕という存在ではない』という全と個の境界線の揺らぎを得た。
既にお気づきの方もいると思うが、見出し画像はフラクタルである。
どんなに縮小してもどんなに拡大しても、形は決して変わらない。
僕という1人の人間はミクロであり、全人類、果ては宇宙人までという大規模なくくりがマクロである。
そのくくりをどれだけ変えようとも形は変わらない。つまり僕は僕でありながら全人類と同じであるということだ。
さて、『知る』と『理解する』ということは決定的に違う。
極端に言うのであれば誰だって知ることはできる。
共感だってできるかもしれない。
しかし、理解だけは本人にしかできない。
その人の頭はその人にしか伝わらないし共有できないからだ。
であるならば、『人は皆繋がっている』『全ての人は自分である』ことを理解するには個は捨てなければならない。
個である限り全を理解することはできない。個は障壁となる。
しかし、個を捨てて全てを理解した時、それは最早『僕』ではないだろう。
全てと繋がり、全てを理解した状態。そこには恐らく肉体も自我も無い。
壁が無くなれば水は混ざり、元の水を元のコップに戻すことは不可能である。
元の水【自我】と元のコップ【肉体】が揃わなければそれは【僕】ではない。
一度混ざってしまったら、それはもう僕であって僕ではない別の何か---THE EGGで言う所の神になってしまう。
人間卒業である。
---果たして本当にそうなのだろうか。
皆と繋がり無意識の中を漂い、それぞれの自我の当事者となり、それでいて僕は最初からずっと僕のままでいられるのではないだろうか?
違法薬物やロボトミーを受けても僕は何一つ変わらず僕なのだろうか。
LSDで違う世界に入っても。大麻でハッピーになっても。
アルコールで酔っても。砂糖に依存しても。
突然巨万の富を得て生活が快適になっても。人生の全てが満たされ祝福されても。
高校生からアラフォーになっても。
本当に今も僕は僕なのだろうか。
連続し絶えることのない自我、なのだろうか。
もしも僕が僕のまま、あなたがあなたのまま。
本当はもう、繋がっているのだとしたら。