人は変わるのか。変わらない核。
今回は自分の性格だとか、そんな感じのことを中心とした内容でお送りします。
例えば、今の自分のこういう所が嫌い、治したいって思ったところで、それって努力すれば変わるのだろうか。
例えば、いつも周りに流される自分が嫌だとして、それをどうにかすれば、流されない自分にいつかなれるというのだろうか。
よく聞くのは、流されてる自分、でも「それでもいいじゃないか」と自分の解釈が変わる系。
流されることは変わらない。
でも嫌いだった部分が、そこまで嫌いじゃなくなるから結果的に変わったともいえる。
いや、変わっては無いけど変わったことと同じになる。
変わったのは、自分がどう思うかの判断の部分。
そこにネガティブな思いを抱かなくなるのなら、結果的に変われたと言ってもいいのでしょう。
問題が問題でなくなることこそ、問題解決ですから。
そう、問題はそれを欠点と思ってしまっていること。
だから欠点そのものを消してしまうか、欠点と思う気持ちを変えるか。
そのどちらかなんだろうなと思われる。
そういう意味では、人は変われるのでしょう。
でも、最近おもしろいことに気が付きました。
私は元々ものすごく臆病で、それはもう幼稚園の頃から言葉を飲み込んでしまう子どもだったのです。
要は、言いたいことを言えない子。
クラスに1人はいる、何をされても嫌と言えない大変に大人しい子どもです。
今もそうなんだけど。
でもさすがに30年も生きてると、かつての自分と今の自分、変わったなぁと思うものです。
これは解釈というよりは、外に出ている部分ですね。
どう変わったのかと言われたら難しいけれど、自分から見て、同じ人物だとは思えないくらい。(外から見たら、また違うのでしょう)
でも私。昔から変わってないなと思ったのが、「みんながやらないなら、自分がやる」という性質。
昔は、例えば面倒な係だとか、みんなが選ばないような役だとか物とか。
そういうのを引き受けることが多かった。
でも不思議と嫌々というわけではなく、なんか、もうしょうがないなと。
昔から空気に敏感で、みんなやりたがらない、誰も手を挙げないシーンとした空気が苦手でつい手を挙げてしまっていたのです。
大人になってからのグループ発表とかでも、誰もが嫌そうな空気を出して場が停滞したら、いつも最終的に「やります」と手を挙げる人でした。
決して喋るのが得意なわけではない。
その割に、評価は悪くはなかった。
(得意・不得意に関係なく、つい自分が出て行ってしまう性質。でも、嫌でもないのです)
で、つい最近も職場で色々あって、これはちょっと看過してはいけないやつでは?と思ったけど。
みんな上の決定に従うばかり。仕方がないと諦めている。
それを見て、
「なんで、みんな主張しないんだ!皆がやらないなら、私がやる!」という、謎の使命感に燃えていた。
結果的に、自分の意見は最後まで曲げなかった。
この熱さと行動力は、確かに昔にはなかったかもしれない。
こうやって見ると、仕方なく引き受けるお人好しな部分が目立つ場合もあれば、行動派な部分が目立つ場合もあり。
そのどれを目撃するかで、他人から見た印象は大分変わりそうだけど。
私という人間の根底に流れている自分を突き動かす原動力というか。
その性質ってのは、同じものなんですね。
同じものに突き動かされ、時に引き受けたり譲ったり、逆に行動を自ら起こして周りを巻き込んだりする。
突き動かされた後に、どういう風に行動を取るかはその時々によるけれど。
その中心にあるのは、ひとつの原動力。
それが自分の核なんだなと思いましたね。
そう考えてみれば、私の協調性の無さにも一応の説明がつくのです。
昔から大人しめ控えめで臆病なくせに、群れることだけはしなかった。
時に前に出る一方、みんながアピールする就職活動とか、そういうのは本当に苦手でした。あの中で目立とうなんて、そんなの無理・・
誰しもが持っている、自分の核。
これは、自分の性格の好き嫌いとか、コンプレックスともまた違った次元にいるようです。
好き・嫌いな部分てのは、その核の周りにいる「反応・行動」の部分かなと。
その出た部分が人から評価される部分になる。
だから時にお人好しと見られたり、行動力がある、いや頑固すぎると思われたりする。
誰しも自分のこういうところが嫌いと思ったりするけれど、それは一面でしかないのです、多分。
その点、核は今も昔も基本的に変わらない部分です。
それはもう、今にして思えば5歳6歳の頃から確立してましたから。
きっとこれは、死ぬまで変わらない。
これを性格ととらえれば、人は一生変わらないとも言えます。
ですので、人は変わるか変わらないかと言われたら、
どこを捉えるかによって、その結論は変わるってことですね。
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