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目標ありきの人生

前々回、旅とか遠出をすることで自信がつく気がしていると書いたけど。

旅を行う達成感、だけでなく、「目的がある」ことそのものが、人を安心させてくれるようにも思うのです。

これは当時から考えていたことだけど、毎日することなく地元で生活するより、見知らぬ街に行った時の方が、なぜか心は安心してた。

知らない場所なのに?って思ってたけど、それは「ここに行く」という目的を持ってそこに来ているからなのでは、と後で分かった。

逆を言えば、見知った地元の町であっても、何をしていいか、どこへ行っていいか分からないって場合は、心細くなりうるということ。

というのも旅行中のある日、1日だけ、何も決めないでおこうと何も計画を立てずにおりまして。
いつもなら、ここ行って、ここに行くといった具合に、完璧に計画を立てる派。
自分が今からやること、次にすることを把握してたいのです。

「たまには、こんな旅はどう?」
と勧められて、まずは試しに1日だけやってみようってことで。

そしたらその時、確かに不安を感じとりました。
それも、結構前から。

どの方向に歩いたらいいのか。
どの電車に乗ればいいのか。
どこへ向かえばいいのか。

分からなかった。
どうしていいか分からずに駆け込んだ案内所で「ここ、おすすめ」と言われた場所に行ってみようと決まったとたん、なぜか心は安心し出した。

単純なものです。
目的地が決まったとたん、そこに意識と足を向け始めたのだから。

ああ、やっぱり目的がないことにソワソワしてたんだなって。

思えば、私たちは毎年のように目標を立てよう、テストであるならば、何点を目指そう。
受験なら、志望校合格を目指そうだとか。
とにかく何でも目標ありきの人生を送ってきてたのだなって。

会社に行けば、毎月の目標やノルマがあるのでしょうし。
今日の業務とかをミーティングで宣言するところもあるでしょう。

人は分かりやすく、何かを達成することに喜びを感じるよう、小さい時から調教され。
それに向けて頑張るよう教え込まれてきたのだなって。

そして、この年までにはこれをやって、この年になったら~といった具合に、人生のおおまかな目標まで存在している。
その通りに生きられればひとまず安心し、そうでなければ焦らされる。

完全に外れた時、目標を見失った時、思ってる以上に喪失感というか、これまで見えてたものが見えなくなったみたいに、途端に不安になる。
どうしていいか、分からなくなる。
まるで親を見失った子どものように。

目標や目的、あるいは目安のようなものがあることは、安心して生きる材料になる。
でも、いつも目標があるわけじゃない。

方向転換したくなる時や、せざるを得ない時もある。
潰えてしまうこともある。

なんでも最速、最短の道がいいと思い込みすぎてたら、そこから外れた時にダメージを強く受けるのもまた事実。
いつも順調なわけはない。

我々は生まれた瞬間から、確実に決められたレールに沿って、しかもそのレールを走り切る時間設定までされて、気付いたらそこを走らされてきた。
卒業する前から次を決めなきゃならない。
卒業したら、もう入学が待っている。

先へ先へと、駆り立てられるように。

私ももっと人生にゆとりを持つことを知っていたら、人生に正しい目標なんて存在しないってことを分かっていたら。

例え仕事や就職の道から外れてしまっても、ゆっくりでいいから寄り道を楽しみながら進んでみようって、もっと前向きに思えたのかもしれない。

そう思えなかったのは、道が途切れてしまったら終わりだって先入観があったため。
そう世間が言ってたし、これまで散々レールの上を走ってきたのだから。

でも、もうそんなレールから外れてしまった今となっては、如何に自由に生ききれるかが当面の「目標」ですね。

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