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春ちかい、ロシアの片田舎で
ナターシャは、胸にタブレットを抱きしめ、雪解け道を注意深くたどっていた。ロシアは⻑く暗い冬のトンネルを抜け、ようやく、春に近づきつつあった。
凍てついた⽥舎道が緩みだし、そこここにぬかるみができ、湖に張り詰めた氷の表には幾筋もの⽩い線が⼊り、氷が割れるピリンという⾳が、まだ冷たい空気の中を伝わってきた。
前⽅の深い森の⼊り⼝に、⼩さな⼩屋が⾒えてきた。煙突から煙が昇っている。あゝ、良かった、「彼」は⽣きているのだと、ナターシャは胸をなでおろす。
だが、それに続いて「彼」が⼩屋の中でこときれ、暖炉の⽕だけが燃え続けている映像が浮かび、ナターシャの全⾝を震わせた。ナターシャは、⾸を振り、不吉な予感を振り払う。そんなことは、ない、絶対に、ない。
「彼」は、孤独を好む。というより、ナターシャにはわからない何らかの理由で、孤独という氷で我が⾝を包んでしまった。今では、「彼」と交際があるのはナターシャ独りくらいかもしれない。
「彼」は固定電話を引いていない。ナターシャが「彼」の誕⽣⽇に贈ったスマホも、とうとう、使ってくれなかった。モスクワに住んでいるナターシャが「彼」の安否を確かめるには、こうして、モスクワから遠く離れた片田舎に「彼」の小屋を訪れるしか術がない。
ナターシャは⼩屋の⽞関に⽴ち、扉にかけられた重い鉄の輪を扉に打ちつけた。⼆回、三回……中から、「どなたかな?」と聞き慣れたしわがれ声が応えた。あゝ良かった、彼は、⽣きていている。
「私です、ナターシャです」
「おう、ナターシャかい。今、開けるから、ちょっと待っておくれ」
声に続いて⾞輪が転がる⾳が聞こえ、ドアが内側から半分ほど押し開けられた。ナターシャの胸の⾼さで、⾞椅⼦に乗った「彼」の顔が微笑んでいた。
ナターシャは「彼」に手を貸してドアを全開にする。⼭⼩屋の中は、暖炉の⽕でオレンジ⾊に染まっていた。
「今⽇は、お⾒せしたいものがあって、うかがいました」
ナターシャが胸に抱いていたタブレットを差し出すと、「彼」が顔をしかめた。
「ナターシャ、私がデジタルなものは嫌いだということを、君は知っているだろう。いいかい、⾃然はアナログなのだよ。⼈も、動物も、植物も、すべて、どこにも切れ⽬のない流れの中で⽣きている。すべてが0と1で割り切れるなどというのは、さかしらな⼈間の迷妄に過ぎない」
「はい、おっしゃる通りだと思います。でも、デジタルも、たまにはイイ仕事をしてくれるものです。だまされたと思って、これを⾒てください」
ナターシャは、「彼」の前でインターネット上のあるサイトを⽴ち上げた。
最初は映像からそらそうとしていた「彼」の⽬が、⼀瞬、画⾯と出会い、そして、そのまま釘づけになった。「これは……」とうめくように「彼」がつぶやいた。
「あなたの⽇本のお弟⼦さんたちが、インターネットの上でこんなサイトを作って、⾃分たちの作品を投稿しているんです。あなたから見たら稚拙でしょうが、素人が描いた絵としては、素敵だと思います」
「おぉ、これは……あの子たち一人ひとりの筆遣いだけでなく、息遣いまで伝わってくる。なんと懐かしい……」
「彼」、イワン・グラーバリは、タブレットに映し出された『ニコライの弟子たち』というサイトを⾷い⼊るように⾒つめた。
「サエコがみんなを代表して私にメールを送ってきて、是⾮あなたに⾒せて欲しいと、このサイトを教えてくれたのです」
イワン・グラーバリがナターシャを⾒上げた。その⽬に光るものが浮かんでいた。
「確かに、デジタルも、たまにはイイ仕事をしてくれるものだ。ナターシ
ャ、ありがとう。そして、私の⼤切な教え⼦たちにくれぐれもよろしく伝えておくれ」
かつてロシア随一の画家として名を馳せながら「⼀介の絵描きに戻りたい」という⾔葉を残して⽇本に去り、そこでニコライ・シーシキンと名乗って多くの弟⼦たちを育てたイワン・グラーバリは、静かに涙を流しながら、いつまでも、いつまでも、タブレットの画⾯を⾒続けていた。
遠くから湖の氷が解けるピリンという⾳が聞こえてきた。すべてを柔らかく解きほぐしてくれる春は、もう、すぐそこまで来ていた。
〈おわり〉