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「日本昔話再生機構」ものがたり 第3話 産業医の闘い 5. ギムレット奉行の正体

『ギムレット奉行』からつづく

 エル・スリナリ医師は、バーの厚い木製扉の前に立っていた。1ヶ月前まで、この扉の向こうは彼が鎧を脱ぎ捨てられる安全な避難所だった。だが、今は違う。
〝ギムレット奉行”の女性に出くわしてから1ヶ月、スリナリ医師はこのバーを避け続けていた。自分を破滅に導く女が待ち受けている魔窟に自ら転がり込むほど、私はおろかではない。そう、自分に言い聞かせ続けていた。
 
 しかし、今日、「支援機構」で憤懣やるかたない出来事に遭遇したスリナリ医師は、マスターのギムレットを渇望していた。あの女がマスターに指南したギムレットではなく、マスターオリジナルのギムレットで自分の中の怒りを溶かし、流さないといけない。そうしないと、怒りは滓のように溜まり自分を内側から破壊する。そのような切迫感が、スリナリ医師をここに連れてきたのだった。

 スリナリ医師は扉に右手を置く。この右手に体重をかけ、押す。扉が開く。
 いや、まて、この向こうには……スリナリ医師は、扉から手を放した。後ろに下がる。ハァハァと大きく息をついている自分に驚いた。
 ダメだ。どれほどマスターのギムレットを渇望していても、あの女性に会うわけにはいかない。自分の心に溜まった滓で自壊するより、自分の外なる女性の力で破壊される方がもっと惨めだ。

――マンションに帰ろう。ゆっくり風呂につかり、地球から輸入した能天気な映画でも見て、気分を変えるのだ。
そう思ってきびすを返したとき、街灯の光が届くぎりぎりの境にひとつの人影を認めた。

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 人影が話しかけてきた。
「スリナリ先生、やっとお会いできました」
聞き覚えのある甘く響く、それでいてハスキーな低音。
 スリナリ医師は、とっさに答えが出ない。
「でも、残念。先生は、もうお帰りですか?」
女の声に、少し媚びるような響きがあると感じてしまうのは、自分が女の術中にはまりつつあるからだと、スリナリ医師は自分を戒める。

「失礼」
と強い調子で言い、リニアモータカーの最寄り駅に向かって歩き出した。その背中を女の声が追ってきた。
「クローン・キャストの過労」
 スリナリ医師は、思わず振り返る。女が街灯の光の中に進み出る。美しい身体の線を強調するスーツをまとった立ち姿が眩しい。
「クローン・キャストの過労実態についてお話をお聞きしたくて、このバーに先生をお訪ねしたのですが、ギムレットの話などして先生を怒らせてしまったようです」
言葉の終わりで、からかうような笑みが浮かぶ。

「あなたは、何者だ。なぜ、私の名前と職業を知っている?」
きつい口調で問いただすと、女が上着のポケットから何かを取り出して近づいてきた。
「私は、こういう者です」
と言って女が差し出したのは、ラムネ星統合政府労働基準監督官のIDカードだった。

〈『危険な接触』につづく〉