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『守護神 山科アオイ』17. 開発中止

「それなのに……なにがあったのですか?」
世津奈が和倉に尋ねる。和倉が拳を握り締め、絞り出すように言う。
「会社の上層部が、抗マラリア新薬の開発中止を命じてきたのです」
アオイが目を丸くして驚く。
「なんで? 毎年40万人ものアフリカの人を殺している病気だぞ。その特効薬を作らなくて、なにが製薬企業だ!」
「臨床試験で良い結果が期待できないという意見でも出たんすか?」
コータローが訊く。
「それは、あり得ない」
和倉の語気が強くなる。

「だけど、さっきの和倉さんの話では臨床試験は計画が立っただけで、まだ始まっていないのでしょう」
と言う慧子を見返す和倉の目が微妙に揺れる。
「和倉さん、こっそり臨床試験をやったでしょ」
和倉の動揺に気づいたアオイが指摘すると、和倉は
「やった」
と、あっさり認める。
「スラジリアに出向いて20人の重症の小児患者に私の新薬を投与した」

「スラジリア保健省の許可を得たのですか?」
世津奈が問うと、和倉が首を振る。
「私の独断でやった」
「それは、臨床試験ではなく、人体実験です」
世津奈が非難すると、和倉が語気鋭く反論する。
「死を待つばかりの重症患者だった。みすみす死なせてしまうより、新薬で救いたかった」
「新薬が効かなくて死んでも、誰からも非難されない患者だった。だから、安心して新薬を試せた」
冷たい口調で言う慧子に、和倉が鋭く切り返す。
「そんな『ダメ元』みたいなテストではない。私には、20人のうち少なくとも半数を救える自信があった」

「それで、結果はどぉだったんすか?」と、コータロー。
「15人を救った」
「なるほど。死に瀕した重症患者20人のうち15人を救ったなら、あなたが臨床試験の成功を確信しても、おかしくない」と、慧子。
「その人体実験の話を会社にしたのですか?」
世津奈が和倉に尋ねる。
「もちろん、した。それでも、会社は私に開発中止を命じた」
「なんで?」と、アオイ。
「金にならないからだ」
「毎年、日本の人口の倍近いアフリカの人たちがかかる病気だぞ。儲からないわけがないだろう」
「ていうか、儲からなくても、作るべきクスリじゃないすか」
アオイとコータローが憤慨する。

 若い二人に、慧子が冷静な口調で言う。
「需要は大きい。だけど、アフリカは政情不安で治安が悪く、交通インフラも整備されていない。新薬を提供できる範囲は狭い。つまり、市場は小さい。それでいて原価が安いから、そうそう高い値段はつけられない」
和倉がどんよりした目で慧子を見る。
「会社の上層部は、まさしくその通りのことを私に言いました」
「あぁ、そぉいう話が、さっき出てましたね」
コータローのトーンが下がる。
「それにしたって、クスリは『世のため・人のため』に作るものじゃないのか?」
アオイの怒りは収まらない。

「アオイさん、『世のため・人のため』なら、国か、『〈顧みられない熱帯病〉と闘う会』のような非営利団体がクスリが作るのがベストです」
世津奈が言う。
「なんで、そうしないんだ?」
「ビジネスとして成り立たせ企業同士を競争させた方が、多様な新薬がスピーディに開発されるからです」
「その代わり、儲からないクスリの開発は進まない」
慧子が引き取る。
「慧子さんがおっしゃるとおりです。だから、『顧みられない熱帯病』が存在するのです」
「ひどい……」
アオイがつぶやく。

「貧しいアフリカの人たちのために抗マラリア新薬を開発するより、豊かな先進国の人たち向けに癌や希少疾患の新薬を開発する方が、はるかに儲かるのです」
そう言いながら、和倉がうなだれる。
「初めて免疫療法を取り入れ画期的な抗ガン薬と言われた『オプジーボ』は、販売開始時には1瓶が約73万円で売れました。もちろん、それだけの研究開発費がかかっているので、法外な高値ではありません」
和倉が言う。
「日本の場合は、『オプジーボ』のような高額医薬品も健康保険で補填されますが、それが健康保険の財政を圧迫することも事実です」
世津奈が言う。
「そうです。だから、厚生労働省は『オプジーボ』の公定価格を2018年時点で発売時の4分の1まで引き下げています」
和倉が補う。
「それでも、1瓶が8万円。保険から補填されたとしても、普通のクスリとは比べ物にならない高価なクスリね」
慧子が言い、和倉がうなずく。

「つまり、こういうことね。人間にとって命ほど大事なものはない。命を守るためなら金をいくら積んでもいい――そう思い、現実に支払い能力がある患者を相手に商売する方が、ビジネスとして割がいい」
慧子が言う。
「金の分かれ目が命の分かれ目なのか」
アオイが唇をかむ。
「金の分かれ目が命の分かれ目――アメリカがその典型だわ」
アメリカ暮らしが長い慧子が言う。
「アメリカは個人が自分の手が届く保険料の健康保険に加入する。加入している健康保険によって、保険がカバーするクスリが違う。高額医薬品には全く手が届かない人たちが大勢いる」
「世知辛い話っすね」
「そうなのです。『医は仁術か、算術か?』みたいな話がありますよね。クスリも同じなのです。算術として成り立たないクスリは、日の目を見ないのです」
「それで、『世のため・人のため』なら違法な人体実験もいとわない和倉さんは、抗マラリア新薬の情報を『〈顧みられない熱帯病〉と闘う会』に提供しようと思い立ち、匿名の手紙を送ったわけね」
慧子が言い、和倉がうなずく。

〈「18. 悪魔と取引」につづく〉