(女性の肖像写真と日本の女性スナッㇷ゚)
(女性の肖像写真と日本の女性スナッㇷ゚)
先日、とある写真展の会場で、出展者の女性の方たちと、写真のよもやま話をしている時に、肖像写真の話になった。
そこでは、無料で、写真展を見に来た人の希望者のポートレートを撮ってくれていた。私も、初めて撮影してもらった。
写真をしている人は、とかく、いつも撮る方に回り、自分が写されることは経験が少ない事が多い。
数十年、写真を撮り続けてきた私もそうであり、自分が写される経験も少なく、またそうなった場合、何とも心細い感じがして、どんな写真になるのか、こころもとなかった。
しかし、出来上がった写真は、とても気に入った。
自分が、このように、写真を撮る人から写される経験は、ほとんどないので、新鮮だった。
なにより、【自分で自分を自由に、カメラを振り回してとることができない】
そうこうしながら、写真のよもやま話をしていたが、そこで話題になったのが、日本で、昔も現在も、いろいろな女性の写真、雑誌に載っているものも、インスタなどに載っている写真も、どうして女性の写真は、【若い人の写真しかないのだろう?】といった疑問だった。
昔のカメラ雑誌に載っている女性の写真も、みんな若い女性のポーズを取ったり、水着だったり、ヌードだったり・・・
しかし、必ず若い女性だった。
そして、現在のデジカメ世代が撮っている女性の写真も、ほとんどが若い女性ばかりである。
そして、インスタなどに、氾濫する多くの若い女性の写真は、最近はやりの、昔と比べて自由で、いかにも親し気な視線やポーズや、いかにも自然ふうなポーズや、又は、意味ありげな親しさや親愛さや不思議な意味を湛えた表情で、こちらを見ていたり、視線をあちらやこちらに投げかけたり、そうした昔の肖像写真と比べて、いかにも打ちとけた自由で、いろいろな意味や感情を込めた表情を浮かべている写真が溢れている。
それは、それぞれが、独特であるように見えながら、実は、多く見ていると、驚くような相似性が存在する。
誰かが、誰かのまねをしているような、手本があり、それを、いろいろなパターンで踏襲しているような、そうして、そのモデルは、職業的な方もいれば、半プロ的な方やほとんど素人の方もいるだろうと思われるが、驚くような相似性がある。
または、風景の中で、微笑んでいたり、風景の中で、幸福感や満足感やさわやかさを湛えた面持ちで、微笑んでいたり、後ろ姿だったり、夢見るような風景と溶け合った姿で、写されている多くの写真が存在する。
まるで、この世には、微笑みと幸せと笑顔と充足が、満ち足りているような夢のような世界が広がる。
もちろん、実際の生活の場では、こうした事ばかりが続くわけはない事は、みんな分かっている。
それであるから、これらの写真は、それぞれの人の中に潜む、夢や願望や希望などが、写真の形で、定着されたものであるように見える。
そうして、それが、同じような願望を増幅するように、想像的な画像が広がってゆく。
それは、そうした願望、観念が、現実を越えて、夢見るように広がってゆく、伝搬してゆくような感覚さえ湧き起ってくる力がある。 (続く)