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写真は金属粒子に恋をする

写真は金属粒子に恋をする・・・有木麗子 写真展

デジタルカメラによる写真プリントと金属箔の作品

デジカメプリントと金属箔

正月に、広島県の宮島で行われた有木麗子さんの個展に行った。

正月に宮島を訪問するのは、今回が初めてだった。
年末年始を初めとして、正月に宮島に行く時間は、これまでの私の正月の時間の使い方でも、家族の正月においても、まったく、経験もないし、考えたこともなかった。

年末年始を含めて、12月を過ぎてからは、様々の準備や実家や墓掃除や氏神様へのお礼参りや家族そろっての初詣や実家への挨拶や・・・・
ほとんど、縁もゆかりもない、さらに混雑する厳島に正月に行く事は、まったく、私の辞書にはなかった。
しかし、今回は縁もあり、また、いろいろな条件も重なり、訪問する事になった。

話は端折るが、有木さんは、デジタル・カメラで写真を始めて、当然のように、デジカメで撮影し、プリンターで写真を印刷して、作品を制作している。作品制作を始めて、10年弱程度の経歴である。

従って、写真とは、デジカメで撮影し、電子データで記録し、モニターで画像を確認し、プリンターで紙に印刷して、写真作品、写真画像を制作している。

すなわち、彼女にとり、また、多くのデジカメで写真を始めた方にとり、プリンターでの印刷、染料や顔料のインクによる紙へのプリントが、写真である。

昨今の写真プリンター、特に顔料系のプリンターは、とても良くできており、鮮やかな映像から、シックな映像、シャープな映像、しっかりしたモノクロ写真まで、多様な表現を可能としている。
その表現力は、まことに素晴らしく、例えば、県美展やコンテストの実際のプリントなどを見れば、その鮮やかな表現力が、並大抵のものではないことが、すぐにわかる。

しかし・・・・そうした表現と優れたデジタルカメラの蔓延で、世の中には、多様な表現力の可能性を秘めた、実力のある道具が、誰でも、ある程度の金額を工面すれば、手に入れることができるようになった。

それまで、撮影すること自体が難しかった、光に少ない夜景や、すばしっこく飛び回る小鳥や夜空に花咲く花火や、満天の星や天の川さえ、少し調べれば、そうして、新しいデジカメを用意すれば、映像にすることは、比較的、手が届く範囲で、作り上げることが可能となった。
さらに、デジカメの撮影データをPCを使って、昔とは隔世の感のある画像処理で、鮮やかな映像を作り出すことが、比較的、誰にでも手が届く作業となった。

今、世の中は、こうしたデジタル写真の恩恵を受けた、色鮮やかで、派手な色彩の写真が溢れている。

しかし、こうした氾濫する写真は、今や、溢れかえり、個性を失い、同じ仲間を示すようなグループ性さえ帯びることになり、同じ場所に行った、仲間意識の熟成と確認には有効であるが、映像自体の個性や独自性を失っている。

そこで、量産される写真群は、違いがあるといっても、僅かな、ほとんど意味のない差異しかなくなり、目くそ、鼻くそ程度の違いしかなくなっている。
それは、なぜか?
それは、明白であり、その風景を撮影する、根本の理由、根拠、意志が、ほとんど空白であり、借り物であるから、借り物と同じ映像しか作り出せないことに起因する。

しかし、これと同じようなことが、デジタルカメラ全般にも蔓延しつつあり、もはや、デジタルカメラ、良くうつるデジタルカメラの映像は、レタッチくらいで、個性がにじみ出るような物ではなくなりつつあるほど、テクノロジーの進歩は、すさまじく、優れた技術力、すぐれた道具の表現力が、かえって、本来は主体であるはずの撮影者の個性を埋没させてゆく現象も起き始めている。

こうした事に、敏感に気が付き、反応した人は、デジカメ写真の感材や印刷物の素材を変えることにより、写真の持つ個性を、特性を、再度立ち上げようとする旅に出る人が増えている。

若い方の銀塩写真の新たな出会い、これは、古い世代、写真を銀塩写真で始めた世代が忌み嫌っていた、「現像してみるまで何が写っているかわからない、現像で失敗して予期せぬ写真となってしまった、粒子が荒れてざらついた写真になってしまう、微粒子をいくら目指しても粒子感を消すことができない、まったく予期せぬ失敗が発生する、ふたを開ける、フイルムが古くて色がおかしい、ラボの現像液が古くて色が出ない・・・」等のフイルムの負のイメージを、すべて新しい体験、経験した事のない新しい映像体験、としてとらえることのできる、デジカメネイテイブの写真感、写真体験から、銀塩写真、化学反応に頼らざるを得ない揺らぎのある映像が、負のイメージから、新たな映像の体験であると感じる、そこに価値を見出す世代の出現・・・
化学に頼らざるを得ない、銀粒子の曖昧さ、揺らぎを持った映像の価値を再発見する世代の誕生。
それは、デジタル映像がベースにある、揺らぎの少ない、いくらでも同じような加工を繰り返すことのできる映像制作から、偶然がもたらす、人の手が及ばない、人の創造を越えた偶然が重要な因子となる映像の創造、製作の新たな扉が開いたことを意味する。

又は、今の時代においても銀塩粒子で撮影し、銀塩印画紙にプリントし、薬品の化学反応による銀粒子の画像を生成する作家。
銀粒子によるゼラチンシルバープリントに、飽き足らず、銀塩粒子を、さらに金属である金粒子やプラチナ(白金)粒子で、コーテイングするプラチナプリント、金調色の世界。
さらには、それでも描き出すことのできない映像に向けて、写真映像の源流である金属板での映像結露、ダゲレオタイプに向かう動き。
また、湿板やコロジオンや青調色との組み合わせ、また、画像を生成するベースへの追及は、金属である銀粒子やプラチナ、ダゲレオタイプ、鶏卵紙から、良質な紙を追求する事にも及び写真用紙の良質なパルプから、独特の多様な風合いと多様な厚みと丈夫さと年月の風化に強い強靭性を持つ和紙への傾倒。
これらは、すべて、銀塩写真からデジタルプリントに至る過程で、追及され洗練されてきた写真用紙からの脱却と物質性、新体制の獲得に向けての一連の運動のように思えてしまう・・・・

それらのめざす映像の先にそびえるものは、映像的、視覚的体験とは、何なのだろう・・・・

有木さんの苦労の末に産み出した、写真用紙としての1つの頂点でもある良質な和紙の高級印画紙、ピクトラン局紙の上に、写真印刷の1つの到達点である顔料インクで、描き出された映像を、そのままでは、あきたらず、金属箔を張り付けて、写真用紙のベースに用い、あるいは、写真画像の上に張り付けて、描き出した映像は、デジタルカメラで撮影しながら、そのやわらかさ、粒子感、曖昧さ、揺らぎは、かぎりなく銀塩粒子や金属を使ったアナログ時代の映像に近づいているように見える。

金属箔のベースの上に、描き出された映像世界は、和紙と金属箔と顔料の融合ともいえるが、それは、銀塩粒子やプラチナプリントやダゲレオタイプにあるように、金属による映像生成に憧れ、同じ世界を夢見ようとしているとさえ思えてくる。

金属箔プリントは、金属粒子の映像世界に、きわめて似通った世界を表わしだしているように思う

それは、偶然性、揺らぎ、曖昧さ、物質性

有木さんが目指している、金属箔による写真映像は古の金属粒子による映像と同じ夢を作り出そうとしているように感じる

それこそは、偶然性、揺らぎによる、同一性を拒否した物質性の獲得に、他ならないように感じてしまう

そして、これこそが、金属粒子による画像で会った、フイルム写真の欠点であり、優位性であると考える

今は、その事に気づいた人が、意識するとしないとに関わらず、デジタル映像に限界を感じた人が獲得しようとあがいている映像の物質性、揺らぎではないかと、昨今、気が付くようになった。

町屋を思わせる会場










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