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FLEX TIMES 『和鉄』①

自分たちの"愛してやまない"を深く知る
FLEX TIMES 第1回目

はラーメン屋『和鉄』

繁華街蒲田に店を構えて、21年。

「自分たちは最初からビジネスとしてやるんだと思って、ラーメン好きで始まったというよりは起業しようと思って始めたから。」

そう語るのは金融業からラーメン屋という経歴を持つ店主の小林さん。
僕たちが中学生の頃から食べ続けているあの味に迫った。

蒲田に店を構える『和鉄』

— — 飲食店をはじめたきっかけを教えてください。

『和鉄』店主小林さん(以下、小林):2001年の5月からかな、(その前は)18年働いたのかな。一応金融機関の端くれのところにいた。2001年の頃は三洋、山一がつぶれた時だよね。

※三洋証券・山一証券:1997年に経営破綻した証券会社

小林:当時金融ビックバンっていうのがあって、証券会社は 株式手数料を自由に設定できるようになって、インターネット上での株式売買も行えるようにな った。 こうなると手数料が安くなるでしょ。そうすると金融機関に人がいらないってなって、まあ ”肩たたき” が流行った時代かな。リストラが出てきたような時代。将来のことを自分たちも考えていてね。信用取引が解消される時代なら現金商売のほうがいいだろうと、同期のやつと相談して、現金商売なら飲食やろうかっちゅう話になったのが最初だよね。営業やってたんだけど、成績が良かったんで(笑)。気持ちは生意気だった。

— —その中でもなぜラーメン屋を選んだんでしょう。

小林:飲食何やるかってなった時に当時ラーメンブームがあったんで、和風ラーメンの『青葉』と新宿の『武蔵』がテレビで毎週のように出ていて、自分たちもラーメン屋くらいならできるんじゃねと思って安易な感じで初めてたんだよね。

— —和風ラーメンの2店舗を参考にされたと。

小林:そうだね。どっちのほうがいいかって時に新宿の武蔵なんかは3~4時間待ちくらいしてたんだよ。それで青葉がいいんじゃないかって、結構通ったよね。それで1年間いろいろラーメン屋を食べ歩いた。修行するっていうそういう感覚はなくてこのくらいのことはできんじゃんって(笑)。修行なしで試作を始めたんだよね。自宅で試作を1年間やったのかな。このくらいなら何とかなるんじゃんってなってお店を開店させたのが、2001年の5月か。自分たちは最初から企業化したいと思ってたから法人化して、ビジネスとしてやるんだと思って、ラーメン好きで始まったというよりは起業しようと思って始めた。

ーーお店を開店してからのことを教えてください。

小林:最初は花とかが置いてあって、ワーッと人は入ったんだけど、2週間くらいすると、日曜日なのに23杯しか売れなかったことがあったんだよ(笑)。これは厳しいなと思ってやってたら、当時ラーメンフリーク界隈で結構有名な人がテレビでうちを新しい有望店として紹介してくれたんだよ。
都内のラーメンランキングっていうのをやってて11位から10位にランキングが移る時に、番外編として『最近有望なラーメン店』って挟んでくれたんだよ。そしたら視聴者が「10番に入っちゃってましたね。」って勘違いしちゃって(笑)。朝の番組だったんだけど、ランチタイムには外に人が並んでたのよ。そこからが徐々に名が上がってきてテレビやラジオやら雑誌の取材が来るようになった。


うちは脱サラで『青葉』を目指して始まったっていうことで、ネットでスレが立って、なんだかんだで『青葉』と『和鉄』どっちが美味しいんだって。自分たちは興味なかったんだけど、常連さんから「これ見てよ。」って言われてね。多分うちの常連さんの中で蒲田の『ShotBarふくろう』さんというところのマスターがいるんだけど、あの人たちだと思うんだよね。ネットで「青葉より和鉄のほうがおいしい」って言ってくれてた人たち(笑)。

そのネットのスレをテレビが見て、取材がきた。自分たちは脱サラって言っていたから、ラーメン番組ではなくてニュース番組のバブル崩壊以降の不況の中で独立した脱サラ特集みたいなので出たんだよね。その年の年末、ラーメン番組で全国ランキング14位で取り上げらたんだよ。
そしたら年明けエラい人が並んでてね(笑)。

スタートして、ラーメンブームと脱サラっていうのがうまくかみ合ったんだよね。それで毎週のようにテレビとかで取り上げてくれる感じになったよね。最初半年くらいは鳴かず飛ばずで大丈夫かよって思ってたけど、そのあとパンっと跳ね上がっちゃったから、それで(順調に)通ってきた感じだよね。

ーー半年でうまくいったんですね。

小林:そうだね、情報発信がうまくいったんじゃないかな。
商品開発をして情報発信をするっていうのがまず全ての基本なんだよね。

今の情報発信っていうのはみんながネットを使えるけど、昔はテレビが絶大な情報発信だった。

当時、テレビは横並びだったから日テレに取り上げられたらフジテレビも取り上げて、それで毎週どっかのテレビに出てたね。
雑誌の取材もPOPEYEとかね。アントレプレナーっていう経済誌の人とかも取材にきたね。自分たちは企業化したいってのがあったからね。

ーーやはり当時の目標はあくまで企業化だと。

小林:やっぱり店舗を広げたいっていうのがあって、4店舗まで行ったけどそのあとはちょっとうまくいかなかったね。商品力が弱かったんだと思う。あれだけ下駄履かせてもらったのに。
四ツ谷店は3年目に作ったんだけど、場所が悪かった。そんなに商業地じゃないし、住宅地じゃないから土日は人通りがないし、近くに韓国大使館とかできて、道路規制がされて駐車違反とかも厳しくなって、これは厳しいなと思ってやめちゃったんだよね。

ーー蒲田にはラーメン虎鉄もありましたよね。

小林:そうそう、四ツ谷に店を出した後、蒲田西口にね。社員がとんこつやりたいって話になって『虎鉄』をつくったっちゅう話ね。
結局、ビジネスとしてはうまくいかなかったよね。でもラーメン屋の親父としては70点くらいかな(笑)。起業家としては0点だったね。

ーー本当はもっと店舗数を構えたかったんですね。

小林:店舗を構えると同時に他のこともやってみたいと思ってた。自分たちは金融屋さんだったからさ。どうしてもモノの見方が違ったんだよね。見方が違ったからこそうまくいったのかもしれないけど。22年もやってたら蒲田じゃ一番古いかって感じになっちゃったから、飲食店としては良かったんだろうけど。起業家としてはだめだったなってところだね。

ーー話は変わりますが、なぜ最初に蒲田という土地を選んだのですか。

小林:商業ベースで考えて、どこが一番最適というのを東京の不動産を回って考えたんだよね。私は世田谷に住んでいて、相方が目黒に住んでたから最初はそこを探してたんだけどなかなかいい物件が見つからなくて、流れて流れてじゃあ蒲田ってなった。自分は友達が蒲田に住んでいたっていうのもあって、多少土地勘はあったからね。ここは繁華街で区役所、銀行、証券とかもあるから昼の稼ぎもあるし、すぐ隣が住宅地だから、夜とか土日も稼げるから最適かなと思って蒲田を選んだ。場所的には風俗街とか多くてどうかなとは思ったんだけど(笑)。お客さんにもここはすぐ潰れる場所だなんて脅されて(笑)。


もう22年経って周りも大分変わったけどね。まあ飲食とかは水物だから、ラーメン店だって蒲田には(開業当初)40何件ラーメン屋がありますって言われたけど、今当時あったラーメン屋はほとんどないからね。半年とか1年で潰れちゃうからね。ラーメン屋が潰れると居抜きで安く作れるからまたラーメン屋が入ってね。厨房もすぐ使えるし、保証金だけ払ってできるから脱サラであんまりお金ない人でも始めやすい。

最初みんな思うのが雑誌とかテレビ見て有名店に行くわけだよね。有名店だとエラい人が入ってこれは儲かるなと思うんだけど、入ってないお店行くと1時間に1人か2人、それだと半年くらいで潰れて”万歳”する人がほとんどだよね。

ラーメン屋ってのは…飲食店は本当に厳しい。特にラーメン屋は敷居が低いから誰でも入れる。敷居が高いほうがいいんですよ。技術がないとできないことは競争相手が少ない。ラーメン屋はラーメン好きってだけでスっと入ってこれるからそうすると手っ取り早いから数はどんどん増えてくるよね。

ーーそんな水物の業界でも20年超続いた要因は何ですか。

小林:最初履かせてもらった下駄が高かった(多くのメディアに取り上げられた)っていうのはあるよね。そこで蓄積できたっていうのは大きいのかな。それと結構常連さんがついてくれたからね。
味はあんまり大きく変えてしまうと常連さんに思ったのと違うと言われるから変えなかったよね。季節によってタレの量を変えたり、塩分変えたりくらいはするけど。

ーー常連さんを大事にしていたんですね。

小林:蒲田は危なそうな雰囲気はあるけど情に厚いよね。
だからお客さんとかでも、今度転勤しますって挨拶に来る人もいたね。そうするとそこで引継ぎをしてくれるんだよね(笑)。次の係長なり、新入社員なりにここが美味しいんだって。
恵まれたというか、愛されたというのがあるから味は裏切れないっていうのはあるよね。交番の人から紹介してもらって来てくれた人もいたね。

だから有名になったっていうのが最大の要因かな。”蒲田に来て和鉄知らない人はモグリだよ”なんて言う常連さんもいるしね(笑)。結構いろんな人たちが連れてきてくれた。ただ、そういう人たちがだんだんリタイアはしてきているよね。当時うちに1日3回来た人がだんだん1日2回になって、週に1回になって、だんだん売り上げは下がってくるね。

ーー2020年は新型コロナウイルスの影響で多くの飲食店が時短営業や休業を余儀なくされました。和鉄も例外ではなかった。

小林:さらにコロナで厳しくなったね。いろんな補助はあったけど、ゼロゼロ融資(金利、担保なし)っていうのがあってね。その返済が始まってるから飲食が潰れるのは加速するんじゃない。
なかなか今居酒屋ではしごもしないし、団体でも行かないでしょ。団体は儲かるんだよね。飲まないのに「いいからビールとりあえず10杯だ。」って頼むんだけど(笑)。そういうバブルの頃とかみたいなのはもうないからね。

コロナが収束しても、習慣が飲まなくてもいいとか、自宅で飲んだほうがいいとか、会社にも毎日行かなくてもいいっていう話になると飲食業は難しい。

データ的に日本って1人当たりの飲食店の数って多いんだよね。日本は1,000人に10件くらい。コロナのライフスタイルが標準化して1,000件のうち3件で十分になる可能性もあるからね。
長い目で見ると簡単に飲食はできないよね。始めたあとにいろいろ勉強して、飲食は多店舗展開するのは難しいなって思ったよね。
確かに成功してるところはあるけど、価格を相当安くしないと厳しいね。
一番厳かったのは牛丼屋さんが1杯2~300円とかマックが100円とかやった時に普通の飲食店が叩かれたよね。町のイタリアンとか喫茶店とかね。みんな5~600円出すことをしなくなったよね。ここ(取材場所:喫茶チェリー)は珍しいけどね。

ーーお客様が減る中でも飲食業を続けていくには。

小林:いかにオリジナリティを出し続けられるか。常にできるかって話だね。

ーーそうすると和鉄の10年後の姿っていうのは。

小林:俺はもういないと思うから社員が継ぐかだね。継いでこの味で成り立つんだったらそれでいいと思うし、この味じゃダメだったら…うん…。昔みたいに最後まで同じ会社に勤めるって時代じゃないんでね。

ーー昔と比べ現代のビジネス構造も変わってきてますよね。

商品のサイクルが短いんだよね。昔なら作ったものが永遠と、なんとなく消費があって。今はペンシル型だから、あっという間に評判が立ってあっという間になくなるでしょ。

例えば、一昨年にあったタピオカとかね。テレビに踊らされてみんな儲かるからって言って始めたけど、もうほとんどなくなってるよね。マスコミがすぐにブームを作るからね。それに飛び込んで博打をする若い人や中途半端な人もいる。うちの商品が20年超続いたけど、味を維持したとしてもお客さんって同じ味じゃ飽きるんだよね。しょっちゅう食べてたらなんか違うなと思って、流行っている店に行くからね。そうするとだんだんお客さんが抜けてきちゃうよね。

うちももう1回山を作ろうと思ったら新しいことをやる必要はあるけど、それは今のお客さんから離れることでもあるから、結構老舗といっても飲食店は難しいんだよね。

ただ、大手の場合は1つのものを残しながら、それができる。新しいものをバンバンぶつけられる。
マクドナルドに行けば基本的にチーズバーガーやテリヤキバーガーが売れているけど、テレビでカリフォルニアバーガーみたいなの作ってくんじゃん。そうするとお客さんは新しいの目当てで来店する。で、カリフォルニアバーガーは高いなと思っていつものを頼む。でもそうやって情報発信を常にやれるところは、強いよね。

大手はある程度そういうことができるけど、中小は自力でCMつくって放映するのは難しいからね。

今はネットを使って情報発信がCMの代わりかな。これからはそういうことができないと、中小の飲食は難しいんじゃないかな。

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