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カーネーションがもらえなくても

今日もダラダラと思うことを話したり、書き留めていきたいと思います。


母の日

今週は母の日。日頃言えない母への感謝を伝える良い機会、とされています。素敵な日ですね。残念ながら私にはいい思い出が、あまりありません。

ちょうど一昨年くらいだったでしょうか。

母の日だし、1日くらい羽根を伸ばそうと思ったことがありました。一生に一度聞いてみたかったバイオリニストのコンサートに行こうと決めて。数ヶ月前からチケットを購入して。それからお着物の襟もつけて。前日までの準備はバッチリでした。

そして、当日。

ママが一人で出かけることを知った幼い娘。
「ママがお出かけするのはずるい、嫌だ嫌だ」と駄々をこねました。当然ですね。いつもなら駄々を捏ねたって、一人で買い物に行ったりもするのに、その日は振り切っていくことができませんでした。私にも少しばかり後ろめたさがあったのでしょう。
今思えば、行ってしまえばよかったと思います。家族には「子供がそうやって駄々をこねるのは当たり前だ。行きたいならどうぞ行ってくればいい。」とつき放たれました。

「今日は母の日なのに」

もう少し協力してくれてもいいじゃないか、優しくしてくれてもいいじゃないか、なんて思っていたら随分悲しくなりました。一日家にこもって誰とも話さず、泣いて寝て過ごしたことを覚えています。あんなに準備していた着物に袖も通さず、布団にくるまって過ごしました。

とある年は、母の日の花束も感謝の言葉もありませんでした。「あー母の日なんだー」という程度のコメントでした。そして、また思いました。

「一年に一度の母の日なのに」

できた母親でないことは十分にわかっています。感謝されるほどいい母親でも妻でもない。それでも、母の日くらい、労ってくれてもいいのではないか、という気持ちが沸々と湧いたのでした。

風薫る五月の空
風薫る五月の空。空を見上げるしかない日もある気がする。

大善は非情に似たり

そして、今年。さぁどうしましょう。冷静に振り返ってみると、どうも私は「母の日だから」何かを期待しているんですね。誰かに何かしてもらうことを期待して、寄りかかろうとしている。もしかしたらバレンタインにチョコレートを期待してたけど、一個ももらえなかった男の子と同じかもしれません。

だから、今年は期待することをやめようと心に決めました。誰かに期待することなんてしなければ、イライラすることもないでしょう。もしそんな時は少しでも離れてゆっくり休み、心地よい気持ちで生きている時間を1秒でも増やしたい。

今年からは、私を母にしてくれたことを感謝する日にしようと思っています。ありがたいことに、小さな娘と一緒に暮らし、毎日いろんなことを勉強させてもらっています。子供のように自分の気持ちに正直にいることがいかに大切なことか、いつも感じます。だから、母にしてくれたことをありがたく感謝する、そんな日にすればきっと悲しくなんてない。

ちょっぴり考え方を変えると、随分と心持ちが軽くなりました。無意識の「こうあらねばらならない」なんて、解放すればいい。もしかすると、母の日に何ももらえなかったことは、私に何かを気づかせるためだったのかもしれません。

「小善は大悪に似たり」
「大善は非情に似たり」

利他 人は人のために生きる(瀬戸内寂聴 稲盛和夫)

これらは仏教用語のようですね。私は瀬戸内寂聴さんと稲盛和夫さんの対話の中で知りました。ここ数年の母の日は非情に感じたけれど、もっと大事なことを知らなければならなかったのかもしれません。日頃心がけているような小さな善は結果的に大きな悪で、非情だと思うことようなことこそ、本当は良いことなのかもしれない。きっともっと大きな目で物事を捉える必要があるのでしょう。

道端で見つけた野いちご
道端で見つけた野いちご

更に、心に浮かんだのは、論語の次の一節でした。

林放問礼之本、子曰、大哉問、礼与其奢也寧倹、喪与其易也寧戚
林放が、世の中の礼が飾りすぎであることをおかしいと思い、「礼の根本は何か」とたずねた。先生はいわれた。
「大きな質問だね。礼はぜいたくにするよりも、むしろつつましい方がいい。葬儀では、りっぱにととのえるよりも、死をいたみ悲しむことだ。(礼の本質はこまごまとした作法よりも、真情にあるのだ)」

論語(齋藤孝 訳)

日頃、なんだか私は礼が重すぎるのかもしれません。なぜ礼を重たくしがちなのでしょうね。またどこかで無意識に何かを期待しているのかしら。お礼やハートを送る事は大事だと思っていたけれど、もっと控えめに慎ましくする程度で良いのかもしれません。心には感謝の気持ちをたっぷり持つことさえ忘れなければ、表に出すのはほんの少しで十分なのでしょう。少しぐらい冷たく思われる方がちょうど良いのかもしれません。

話はすっかり変わりますが、最近保育園の保護者会に関わっています。集まったメンバーは、もちろんみんな忙しい。それでも、一人一人が協力しながら、工夫しながら保護者会の運営を行っています。新しいことも取り入れながら、不要な部分を削ったり、改善に邁進しています。

一人一人、知識や経験は全く違います。仕事のように採用面接があったわけでもありません。なんとなく声をかけられて集まった同学年の親たち。たったそれだけなのに、それぞれの持てる力を発揮する素晴らしいチームだと感じています。
そう、彼女たちをみていると、特に礼が重たいわけでもなく、淡々としています。できる人や気づいた人があれやろう、これやろうと自発的に動く。顔を合わせれば、どうしたらもっと上手くいくかを話したりする。正直とても不思議ですが、ありがたい。

いろんな小さなありがたいことにたっぷり感謝して。それから礼は慎ましくして生きていくのがいいかもしれない。今日はそんなことを思いました。

海岸の美しい夕日
海岸の美しい夕日

カーネションがもらえなくったっていい

母の日に何ももらえなくったって、感謝されなくったって、きっと悲しむことはない。母になって思うのは、誰にも見えないところでものすごく大変だということです。

朝起きてご飯作って、準備して。ほつれてるズボンを朝からちくちく直したりして、保育園に連れてって。帰ってきたら洗濯して、干して。それからお部屋の掃除したり。そして、仕事して。仕事終わって帰ってきたら、ご飯作ってお風呂入れて、保育園の手紙を読んだり、読むの忘れたり。それから一緒に隣で寝ながら絵本を読んだり、今日あったことを聞いたり。もちろん大好きだよってハグすることだって欠かせません。そして、家族が遅く帰ってきたら静かに心のこもった料理を準備する。
もちろん手抜きする時だってありますが、子供が一人でも大変だと感じます。複数人いらっしゃる家庭なら、もっともっと大変でしょう。

もし母の日に何ももらえなくても。稀かもしれませんが、私みたいに感謝の言葉一つもらえなくても。頑張っている自分を自分で褒めてみたり、母にしてくれたことに感謝してみるような心持ちでしたら、もしかしたら少しは気が晴れるかもしれません。そして自分で小さなカーネションを飾ってみるのもいいかもしれませんね。早速、私はいろんなものに期待しない決意と共に飾ってみました。さぁ、今年は上手くいくでしょうかね。

季節はもう立夏。今日は「蚯蚓出 (みみずいずる)」という季節です。土の中で眠っていたミミズが地上に出てくる頃です。暑かったり寒かったり、ずいぶん不思議な気候ですが、皆さまご自愛ください。

カーネーションに感謝を込めて
カーネーションに感謝を込めて

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