カウリスマキ『枯れ葉』
アキ・カウリスマキ監督『枯れ葉』を見た。
言語化した途端に全く変質してしまうようなディテールの積み重なりが、人とその生とのぎくしゃくした間合いを、食べこぼしのようにボロボロ落してくる。「膝までコンクリートの中」に浸かって泥濘にまみれ絶望しながら、ふと向こう側まで突き抜けてしまったときに込み上げてくる乾いたおかしさ。
顔の片側を引き攣らせるようなアンサのぎこちない微笑は魅力的で、日々あちこちから向けられる商業的なほほえみと不当に侵犯した境界線を後ろ足でサッサッと汚ならしく均すような笑いに鈍った身には、ああ、微笑というのは本来こういうものだ、と刺されたようだった。そう、微笑とは本来こんなふうに、自と他のあわいで世界の表皮がつかのま緩む瞬間、のっぴきならない状態のまま、空気に一瞬襞をつくってみせることなのだろう。
スーパーマーケットで、パブで、ものを売る姿の方が多かったアンサが皿やフォークやホワイトアスパラガスの瓶やアペリティフを買う場面が最も見ていて辛かった。
作中ではこの場面は悲しい場面ではなく、むしろ恋することの喜びがアンサを薄らと包んでいる幸福なワンシーンといってもよさそうなのだが(でも、アンサはそれをわざとらしく全身で表現することはない。例のぎこちない笑いを見せるだけで)、彼女の窮状を見続けてきてからのこの消費に次ぐ消費、我がことのように財布のなかを吹く風の冷たさがわかる。覚えている限りでは、アンサが幾つもの品物を買うのは、作中でもこの場面しかない。相手のホラッパもまた花屋で小さなブーケを買う。大人が恋をするには、かくもお金がかかる……。けれどもお金が人に恋をさせているような数多の恋愛物語とは違っている。
王子様のキスで目覚めるお姫様を全部ひっくり返した病室の一場面もよかった。
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