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伝統的宗教に置き換わる様式的思考がもたらす罠
正月で帰省していたので実家の両親と久しぶりに会話をするも、どうも話が嚙み合わない。何回も状況を説明するも、話が極微量でも受けて側の演繹を必要とすると理解が中断されてしまうのだ。
これはおもしろい発見だと思い、途中から視座をずらして観察しながら会話を続けてみた。すると中断の要因は複数あるようだが、特にバイアスの効果が大きいようであった。例えば、正月なのにある親戚は挨拶に来ない。これはその親戚の職業のせいだ。といったなんの合理性もないバイアスによって、私がいくら丁寧にロジックを説明しようと試みても、まったく話を受け付けなくなってしまうのである。
ここからが本題。つまり、日本人の思考形式は「合理的思考」と「感情的思考」と「様式的思考」の3つで構成されることが見えてきた。私はこれまでの仕事感や経験から日本人の思考形式は大きく2つに分類されると思っていた。それが合理的思考と感情的思考である。
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読者の皆さんも上図の構造は経験があるのではないだろうか。例えば仕事は合理的思考が重視されがちだが、最終的な意思決定は感情的思考によって左右されることも多い。上図の二項対立をいかにしてコントロールするかが命題とされることもあるだろう。
しかし、今回の里帰りで衝撃だったのは合理的でもなければ感情的でもない事象を作り出す思考が存在することだった。それが「様式的思考」なのだ。例えば、母は親戚Aに対し正月なのだから挨拶に来るべきだと主張していた。合理的思考からすればわざわざ遠方から田舎へ挨拶だけに来るのは非合理的なので、最低限のやり取り(年賀状やメール、チャットなど)があれば十分だろう。では感情的思考により母の主張が存在するのかと思っていたら違った。母も感情的には親戚Aと面会するとめんどくさいことが多いので、できれば会いたくないとのことだった。合理的にも感情的にも主張が「否」であるならば、なぜこのような主張をするのか戸惑った。そこでもう一度母に主張の根拠を聞いてみると、これは習慣、習わしであるので会いに来るべきだとのことであった。この正体が「様式的思考」である。
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3つの思考形式を現時点で収集した情報のみで無理やり構造化すると上図のようになる。(まだ考察が足りていないのでシンプルすぎる気がする)
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髙野雄一が図的に考えていること
「図解思想家」髙野雄一の日常生活。図的な瞬間を徒然に切り取るエッセイみたいなもの。意味があったりなかったりする。週1~2回くらい更新します。
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