シラカン「蜜をそ削ぐ」感想
9月28日土曜日の昼にSTスポットで観劇した。
それぞれの役者さんと役のフィット感がよくて、ひろひろの佇まいとか、みつえのピリッとした声とか、もんちゃんの髪型とかが、役にめちゃくちゃあっていた。
最初に備忘録のあらすじを入れて感想を書きます。ネタバレだらけです。
物語は、謎の土地が舞台。共同生活する人々がいて、全ての物資はそこにつながっている列車から届く、という世界。
最初はその列車を所有する暴君(通称トップ)が、その手下とともに物資を管理していた。その2人以外には絵を描く男と、女性の同性カップルと異性同士の夫婦がいる。その夫婦には子供が生まれるのだが、その見た目は切り株そのもの。
ある日、男にそそのかされ手下が実権を握る。手下は作物を自力で育て、列車の物資に頼るのを止めようとするが、作物は育たず列車が気まぐれに届けるコンディショナーを栄養に人々は生きることに。
すると異形の子供はコンディショナーを飲んですくすく育ち、謎の肉塊として立派に成長。成長した子供はなんと食物を生み出せるようになるが、食物をもぎ取られ過ぎてしまう。
そして空っぽの体をその場に残して子供は消え、ある女の子(役名:声)がやって来る。すると、彼女の声が列車やこどもと酷似していて、彼女は子供だとか列車だとかいう問答の末、腹を刺されてしまう。
それを受けて、一度はその世界を去った人々だったが、働かなくても食べ物が得られるその土地に、みんな再集合し、子供のいなくなってしまった体から勝手に食べ物と花を取り、謎の土地の外にそれらを送って満足をする。
しかし、腹を刺された子供は舞台上に戻ってきて、あなたたちがやるのは、と抜け殻のこどもの身体を支えてみせる。それに倣って住人たちも一緒に抜け殻支えてみるが、すぐに興味を失ったように身体を地面に落として、平然とその場を去り、抜け殻を背負って声は地面に崩れる。
文字に書き起こす上で、多分に私の解釈も入ってしまっているけれど(記憶違いもあるかもしれないけれど)、ざっくりとこんな感じだったと思う。
観た直後、この結末にかなりぐったりとしてしまった。救いがなかったから。ものすごく端的に言えば、終始与え、尽くしてきた人が、それを享受した人々に搾取され尽くして終わる話だったので、絶望感でいっぱいになって帰った。
登場人物たちはエゴにまみれていて、それぞれの個人の間には飽きるほど、支配と被支配の関係がある。
最初の支配者であるトップなんかは、自分の握る利権(列車の物資)を人質に、住人たちを従わせていてわかりやすい支配者だ。でも、従わされている人々も人々で、自分の理想通りに他人を動かそうとする。
例えば、大して害がないように思われた絵を描く男も、自分の描いた絵が子供の作った食べ物と交換ができるとわかれば、自分の絵の価値を振りかざすのだ。必要以上に子供から食べ物を奪い取り、その権力を誇示し、手下とトップに、俺がやった食い物が食えないってのか?え?、と高圧的に迫る。
この舞台の「育む・育まれる」のテーマと支配・被支配の関係は深く結びついていると思う。それはわかりやすく育む行為をしていた妻のみつえに表れている。自分は正しいという正義でエゴをコーティングして、育むと見せかけて支配をするのだ。
子供が自我を持って外の世界へ出ようとするシーンで、子供が本当にどうしたいかに耳を傾けず、自分の理想の育て方を押し通そうとするみつえの姿は、まさにその支配の表れだ。
現実でも良くある図なので、わかり過ぎてうげげ、となる。「注ぐ」という与える行為に見せかけて、「削ぐ」という奪う行為をしているのだ。
「注ぐ」に見せかけた「削ぐ」行為はこの作品内に沢山ある。トップはわかりやすい。俺がいなかったら争いごとが絶えなくなるんだ!お前たちのことを思って俺が管理してやってるんだ、なんだ、文句があるなら俺の代わりにお前たちが管理をするのか?、と住人に恩を着せる。あからさまに削いでいるのに、注いでいると主張する。
若干見えにくくなるけれど、カップルの両者も互いに対してあなたのためなんだからね、と言いながら、相手を下に見て、場をコントロールし、自分自身の望む状況を作り出そうとしている。
住人たちは注いでいるというポーズ、つまり他人に興味や愛のあるふりをして、本当は削ぐことで自分の利益を得ることに夢中でいるので、面倒臭くて利益にならない他人事にはとことん無関心だ。
手下が天下を取って作物を育てるための労働をするとき、私たち、労働とかしないんで、って壁際に突っ立っているカップルや、手下をそそのかしはするけれど自分は線路を壊すことはしない男とか、面倒くさくなりそうなことには無視を決め込む姿勢とか。
特に、夫のひろひろなんかは優しそうに見えて、面倒くさいことに関わりたくないという一心で動いている。不安で仕方がない時、それを具体的に解消するのではなくて、大丈夫、僕頑張るからさ、という言葉で全てを片付けようとする。みつえの気を荒立てない、ということがひろひろの最優先事項なのだ。(本当に本当の蛇足だけど、この"大丈夫"こそが『天気の子』の大丈夫が非難される背景にある大丈夫だと思う。私は『天気の子』の大丈夫はこれとは違うと思っているけれど)。
だから、優しそうに見えるひろひろは声を刺す張本人となる。声が子供であると認めないから場が丸く収まらないと言って、"面倒くさい"彼女の叫びを場から排除するのだ。
この演劇を観た時、私はちょうど大学の頃のコミュニティと大学外のコミュニティの社会問題に対する距離感の違いに落ち込んでいたので、声から得られるものは得たがるくせに、子供の抜け殻を持つことはつまらないし面倒臭いからやりたくない、という無気力と無関心がグサグサと刺さった。
声が住人に、あぁ〜やばいですね、と言いながら、あ、あなたたちには関係がないので今まで通り楽しんでください、というセリフも、エゴでしか行動できない人への諦めが含まれているようで苦しくなった。
この無関心を、どうにかしないと……と焦る気持ちでいっぱいになってSTスポットを後にした。
だけどゆっくり冷静に咀嚼をして、自分を顧みて深く反省した。
そもそも自分が気づかなかったり、気づいているけど知らんぷりして子供の抜け殻を取り落としていることは絶対にある。
声が、おかしいって思ってたよね?って、住人に問うセリフがあるのだが、まさにそれがこの演劇がうっすらと漂わせ続ける不穏な空気だったと思う。線路がないのに列車が走ってくると言う小さな違和感や、コンディショナーが飲めるし栄養となることや、切り株のようなものが赤子であることは、確かに登場人物にとって奇妙で違和感のある現実なのに、うやむやにされて結局誰もが疑問を持たなくなってしまう。
切り株の赤ちゃんという違和感は滑稽で笑えるものではあるが、時が経つにつれてグロテスクで気持ちの悪い肉塊にに成長していく。
私たちも現実で、ん?何かおかしくないか、と思っても、時間が過ぎていくうちになんとなく慣れていって気づいた時にはものすごくおかしくなってしまうことがある。
戦争は気づかないうちに起きていて、気づいた時にはもう手遅れって感じで、それはちょうど今みたいな感じかもしれない、と最近思うことがあるけれど、まさにそれがこの演劇の不穏な空気だと思う。
そして、その違和感を自分が感じ続けられているかと言うと、不安で居続けることや、怒り続けること、主張し続けることはできなくて、結局子供の抜け殻を放棄するように、放棄してしまっていることは頻繁にある。そもそも行動自体、起こせていないことがたくさんある。
その上、子供の抜け殻をを取り落とさせないようにしないと、という焦りもまた、価値観の違う他人に、自分の正しさを当てはめて、再教育しようというエゴでしかない。
価値観が変わることは悪ではなく、むしろ価値観が変わらなければ、今よりちょっとほっと息をつける世界に変わることもないはずで、でも価値観を押し付けるのは良くないことで……とぐるぐる同じところを回ってしまう。
エゴなく価値観を共有するのは難しくて、対等に自分の考えを明かし合い、お互いに価値観をチューニングすることでなら出来るかもしれない、理想的だ、と思う。でもそれを現実で行うのは気が遠くなるくらい難しくて、理想の域を出ない。
そして"育む"というように、両者に傾斜がついた瞬間に、その関係はものすごく、あり得ないくらい、難しいものになる。
他人との関係性の最適解とは何か、ということに答えを出すことは永遠にできないのだとは思う。でも、心地よいコミュニケーションばかりではなくて、ディスコミュニケーションの中に身を置くのはきっと必要だろうなぁ、と思った。
結局今自分が何かできるわけではなく、不安がずっとあるだけなのかもしれないと思うけれど、そういうことをしながら、ずっと考えるしかないなぁと思う。