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The MusiQuest

これは、涙と一緒に零れた言葉。
書き直す気力が無い。
毎日書こうとする度、思い出す度苦しかった。
苦しむことさえ、嬉しいと笑えるように。
残しておこう。
私の憂いが原因か、そこに確かに何かあったのか、それはわからない。わからないけれど、今も胸につかえるこの夜を、忘れることは出来ない。下手をすれば、このまま、忘れることは無いのだろう。

ProPose 、Blizzard 、と続き、
彼の心の内で聴くような心地を覚える。
大好きな人の胸の中、棘と花弁と、青い葉と、良い香りがする。少しつんと冷たい風も、心地好い。
愛する気持ち、愛されたい気持ち、愛している事実、どちらを向いても愛に溢れていて、とても美しいのにどこか寂しい。人を求める気持ちは、簡単に報われてはくれない。
そこに続く、Soranji 。彼の核へと到達する。
私はあんなにも泣き叫ぶ、切なるSoranjiを知らなかった。どのテレビ歌唱でも、どのLIVEでも、こんなにも、もう聴きたくないと思うほどに苦しかった。そんなに苦しいなら、歌わなくていい、これはエンタメとして昇華されるべきでは無かったのでは、と抱えても仕方の無い気持ちが生まれてしまう程に。
その一方で、プロのアーティストに彼はなったのだなと、思い知らされるようでもあった。表現者として、彼らは、隙が無く、圧倒的だった。
もう嫌だと思うのに、こんな気持ちにさせてくれることがうれしい。こんな人達にもう出会えないことを、私は知ってしまっている。あなたが生きていることがこんなにも嬉しい。
でもこれはあなたに会うために生まれてきた、出会えた喜び、歓喜の雨のSoranjiでは無い。
それらを覆い隠す憂い、孤独、傷だらけの身体が泣き叫ぶような声。もうここには居ない誰かに、「生きててほしい」と乞い願う、今ここにいる「生きたい」と感じられない誰かへ、彼は何処にも居ないのかもしれないと不安になる、今まで聴いたどのSoranjiよりも、こわい。これが、彼の中にある、大切な部分なのだとしたら、なんて人だろう。
愛故に、憤りさえ感じる、つよい嘆きのSoranji
「キリがないほんとに」から続くアレンジがあんなにも激しかったことは初めてに思う。泣いている、彼が泣いていると、確かに感じた。この人の言葉がとてもすきなのに、言葉がなくても、こんなにも心を掴まれる。その歌声が、泣き叫び、途方に暮れた。この感覚を、この場に居ない人は感じずに生きるのかと思うと、苦しいのか嬉しいのかわからなかった。ただ、同じように聴こえた人の手を握り締めたくなった。
人生のひとつの幕と、彼が呼んだこの楽曲。
初めてそれに触れたように思う。
私は初めて、Soranjiに出逢ったのかもしれない。
まだこの感覚全てを文字にすることが出来ないけれど、いつか私自身が、巡り会うのか、その蓋を開ける時、もう一度これを読んで思い出したい。

Soranjiの後にMCが入ることに未だ慣れない。けれど全てを黙らせるブレスから、藤澤涼架の最後の一音が消え、会場が明るくなった時にふと緩む緊張感。さっぱりとした笑顔で、こちらを見渡す彼ら。今までと違い楽曲が続かないことでより、照らされた客席にいる私たちの反応、伝わっているかの確認、余韻を自分たちで切り開くことに、愛情を感じる。Soranjiという楽曲への愛情を、彼らが確かめようとしているように思う。うれしい。どこであの悲痛な歌声から、MCに心を切り替えられるのか全く分からないけれど、伝わりすぎて呆然としている、タオルで顔を覆う人を、あんまりにもやさしく見渡すから、これも、これだ。これでいい。

初日はひろぱ、2日目は3人の声が揃って始まった「Feeling」。ここで事は起きた。

些細な違和感で思考が止まった。なんだ今の違和感、何が違ったんだ、と思っているうちに曲が終わった。何だ何だと帰り道で原曲に戻って、すぐに気が付いた。「限りないものって本当に無いんだろうか」と、ないわけないよね、あるよね、と思わせてくれていたこの曲でそれは「限りないものって本当にあるんだろうか」と、歌詞は書き換えられていた。あるわけがないね、と諦めたような印象を受ける。「ある」と「ない」の二つの音が、ひとつの単語が変わるだけで、楽曲の表情に影ができる。Mrs. GREEN APPLEが奏でるこの曲、彼がアルバムの中で一番好きだと言ったこの曲で、それはあまりにも容易く時間を止めた。どうして、と。単なる言い間違えだろうか。歌詞が抜けることはあっても、単語ひとつを生みの親が間違えるだろうか。はっきりと感じたのは2日目で、1日目も何かモヤッとしたものを感じたからきっと二夜連続でこれは起きていたはずだった。Soranjiに続く、Feelingでの違和感。何故、と思う。多くの層が集まるフェスで、彼らは何をしようとしているんだろうか。何を私たちは、受け取れたはずなんだろうか。

そしてその直後、溺れるような音がした。
ぶくぶくぼこぼこと、息苦しくなる音、溺れていた。「潜る」など意識ありきのものでは無く引きずり込まれる時の音。ぎゅっとTシャツを掴んだ。
薄暗い夢から目を覚ます息切れが脳に迫る。早い呼吸に、自分の呼吸が重なっていく。苦しい。汗ばんだ肌。この感覚を知っている、押し潰される圧、孤独だ。
「死にたい今日も」、Lonelinessの始まり。
ここはその人の心の奥底、誰にでも存在する。「どうして生まれてきたんだろう」「何をするために生きているんだろう」「愛し合っても何故寂しさは拭い切れないんだろう」、もう消えてしまってもいい、そう思う心と裏腹に思い浮かぶ君の顔が憎らしい。
君を好きでいることだけは、自分の中に生まれた本物だと信じたい。君を好きでいることだけは、諦めたくない。これを失えば化物にまた一歩近付く、君への愛だけは失いたくない。どう扱おうと指の隙間から零れるような好意、強く繋いでも皮1枚の触れ合いに過ぎない。虚しい、寂しい、かなしい。
限りない愛情が見当たらない。期待をしては脱落する相手を眺めてきた、期待をしては脱落する私を知っている。飽きと呆れ。限りが来る。愛が終わっていく。限りある酸素を分け合う愛か、奪い合う生への執着か。じょうずに愛し合えないと、肺に穴が空いたように苦しい。漏れ出す愛、繰り返す錆。生きていくには、不向きな心を、抱いて欲しい。抱ける自分にならなければ、終わらない。

くるしい。くるしかった。

急に明るくしてミラーボールを煌めかせても騙されないぞ、というか心が追い付かないぞ、と思いながら暖色に包まれたステージを見ていた。口を開けて見ていた。笑う彼らが遠くに感じた。置いて行かないで欲しかった。
ダンスホールのことは好きだけれど、ダンスホール1曲でなんとかなるような状態ではなかった。
そして全てを、良いことも、悪いことも肯定する「ケセラセラ」がやってくる。
辿り着く。これだけ嘆き、憤り、溺れ、呻き、それでも辿り着く場所がある。良くも悪くも、それはやってくる。なるようになると、一緒に信じて欲しいと彼はいつか言った。これだけの、悲しみでは語りきれないものを放って、ここまで来い落ちて来い、と言わんばかりの曲を、表現を浴びせた上で、ケセラセラを唱える。

原曲のケセラセラがとても好きだ。
「ツァラトゥストラ」の音が特に好きだ。
永遠回帰、全て繰り返されている。
それを歯向かうように、低く、強い芯。愛してみせると、固く誓うような原曲が好きだ。
高らかに「ツァラトゥストラ」と奏られる度、繰り返しを、彼らはもう受け入れ、愛していて、私は取り残されたような気分になる。
今になって、「生まれ変われないまた私だけ」と、選ばれなかった詞を、手にしている。
遠い。Mrs. GREEN APPLE が、遠い。
私だけが、行かないで、と泣いている。

どこへ行くの、
Mrs. GREEN APPLE
どこへ行くの、
大森元貴。

行かないで。

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