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おかえりなさい

ではそれは何だったのかと云う話。
何でも良い、目に映るそれが彼らの答えで、揺さぶられた心が私の受け取り方だ。
そう思う。それでもそこに散りばめられたことや、彼らの姿勢以外のメッセージ性や、何かを掴みたい。欲しいと思ってしまう。欲しい。追うというのは、何もライブを追いかけることだけでは無い。その意味や答えを、探そうとすることも、「追う」ということだろう。ミセスを追う、追いたい。追いかけた数日の結末を書く。ちなみにこれを書く人はインタビューを読み終えている。インタビューを読みながら、それまでの歌詞を振り返りながら、ではどういうことだったかを整理する話だ。当日はおったまげて終わりだわ。


まずその場所は、何処だったのだろう。
どこから来たか問う声に分からないと答える、今居る場所にもピンとした顔をしない。
その場所は、「白く眩しく」、そこに居る人々は「安らいでいた」ように思う。Theaterという曲にあるように、人々の辿り着く待ち合わせ場所だったのでは無いだろうか。「白を身に付けてきてね」それは必ず出会うための約束だ。夢のような、もしくは死後のような。反転する世界は、あの世と捉えることも出来る。こんなにも白い衣服を身に纏う人間が集まる場所、他にあろうか。我々から切り離すことのできない場所。そのような場所。

では《彼》は、何処から来たのだろうか。
暫く考えたけれど、分からなかった。荷物は一つだけ。奪われないようにするわけでもなく、それは人に預けられるもの。人に預けても、委ねてもいいと言えるもの。《彼》は誰だろうか。話が進めば分かるだろうか。

私の耳でも流石に聞き取れた言葉から紐解こう。
「わがままはおわる」。
さあ、この時考えられる「わがまま」とは何だろうか。《彼》のわがまま。難しい、そもそも彼が誰なのか分からないのだから。素直に受け取るのであれば《大森元貴》のわがままだ。 Attitude という曲を聴いてから、ずっと私が彼の中に探る答えだ。しかし大きく考えすぎると見えなくなってしまう。「わがまま」とは。もう少し先で考えよう。

1曲目で踊ることもマイクを握らないことにも驚いたものだけれど、2曲目、3曲目と続き、何となく心は気付き始める。今回はそういうことがしたいのね、と。ギターを持たず、踊りながら、歌いながら、ミュージカルのようで、そうでも無い。
ならば、こうは言えないだろうか。
「ホワイトラウンジ」こそが、《大森元貴》の「わがまま」であると。今回のセットリストの中には「終わりの始まり」という言葉が出てくる。何が始まっていて、何が終わりに向かうのか。この「ホワイトラウンジ」だ。「ぼくのわがままは此処に始まる」と、そうしてホワイトラウンジは終わりへと進んでいく。

振り返れば決定打となる曲はもう少し先で会うことになる。《彼》が誰なのかについて考え直そう。
《彼》は、どの曲でもそうあることが正しいかのように身体が舞う。時折テレビにはノイズが入り、場面はチャンネルを変えるように変わる。《彼》も、表情や、漂わせる雰囲気を変えて、別人のようになりながらも、一貫した何かを感じさせる。芯と呼ぼうか、核と呼ぼうか、心臓と呼ぼうか。全くの別物では無いと、わかる、何かだ。

ストーリー性としては、正しい時間軸のように進んでいるようでありながら、過去を振り返った思い出、でもあるように思った。全てが「今」には無いような心地。特に漂う They are から Coffee 、ニュー・マイ・ノーマル 、PARTY 。 華やかな第二のステージへの扉のようでありながら、美しかったと言い切れる過去の幕が閉じるようでもある。

ひとりの男、《彼》の半生だったのだろうか。
何処から来たのか分からない《彼》に、振り返れる半生などあるのだろうか。
《彼》とは。何故記憶が無くても、その身体は動くのだろうか。そう在ることが当然な存在。

《曲》なのだと思った。
一人目、わがままの終わりを告げる。
二人目、水のように姿を変え白のように何色にでもなれる。柔軟なダンス。
三人目、手紙となった。「君」は女性だろうか。
四人目、「君」は太陽だったのかもしれない。陽の当たる場所、君が居ないことに彼は「いつだって大丈夫」と言い聞かせていた。
五人目、外の雨は雪へと変わる。雪と反射、目が焼けるような怒り。
六人目、愛の種は雨を栄養に雪に耐えた。腐る牛乳と、注がれれば冷めるCoffee。
七人目、一人だけ電話の子機を使っている。繋がらない、繋がりたい、いいや違う。手を取りたい。
そうしてプロポーズに歓声が上がる。
微笑ましい。

《彼》は、耳に馴染んだものよりも、アレンジされたものが多かったように思う。生まれたての姿では無いと言えるような、もしくは本来そうであるかのような。その子の世界。純白の皿を出され、おめかしをされた彩りを食べるような、本来の味を楽しむような。


八人目、ここで多くの扉が登場する。
「♤♢♡」を潜り抜ける。もう一枚はくぐらない。ここの順番はその日によって違うらしい。
扉を潜るというのは、何を示していたのだろう。

幕間、産声を聞いた。
ネタバレ解禁後、何人かの人がそう言っていたので確かに聞こえていたのだろう。
「産声」だと思った。赤ちゃんの泣き声、というよりも、「産声」だ。

その後、今回も触れたいのは「Attitude」、やはりその人だろう。
「わがままはおわるから」と告げられた時、誰しもが頭に浮かべたのは彼のことだろう。ミセスという歴史を辿る時、語るには苦しく、避けずには通れない。彼らの口から「神格化」という言葉があったように、本人たちの中でも特別なものであったには違いない。それがあのキラキラエンタメだ。
そういうことなのかもしれない。
「バンド」という枠に似合わない表現方法、似合わない自分。これまでの思い出の中で、彼らの思い、ファンの思いを背負ってきたであろう「Attitude」。彼は解き放たれたように、踊った。わがままな夜によく似合った。

後半ではAttitudeの前、9曲目10曲目では初々しい甘酸っぱい恋模様が描かれる。ここでは何処か、「これが見たかった!」と思うような感覚があった。《大森元貴》という人を思い出すような。思い出すというのはおかしな話で、そこに在る人を《曲》だと捉えても顔も体もそれは《大森元貴》だ。ただどこか、彼では無いように感じた。いつもの彼では少なくともない。彼はもっと、曲を受肉させるその時、その表情は、切なるものが、きらめきが、ぎゅっと詰まって眼が離せるものではないからだ。体を《曲》に貸しているような、ぼんやりとした表情が多かったような気さえする。あと春愁の前、umbrellaを聴いた人は居ないのだろうか。本当に?私だけ?

12曲目、13曲目と、フィナーレを飾ってきた曲が披露される。それはどうにも今までと違う「さびしさ」や「むなしさ」を感じる台詞と、小さなステージで繰り広げられた。
特に13曲目の彼については《大森》自信が「ファンファーレ」という言葉を使っていた。そうしてそのような演出が多く、特にテレビでこの先も出演者が居ると言うのに紙吹雪が出る時などは最高の気持ちだった。それでもわがままな夜において、それはほんのりと寂しい。無意識に手拍子を入れてしまう、調教されている。
圧倒的だったのは14曲目、Soranji 。去年の彼といえば、私はミュージックエストを思い出す。憤るSoranji、耳を塞ぎたくなる程に、愛故に憤るSoranjiだ。その夜の彼は、ちっぽけだった。虚しくて、どれだけ頑張っても、愛されたくて着飾っても、報われない、見つけてもらえていない、私みたいなSoranjiだった。それは初めてだった。この曲に、そんなことを思う日が来るとは。

そうして1曲目が途中まで流れると、最後の彼はフロリジナルだった。寂しくて堪らない日に聴くことが多い彼も、「ワクワクが腐るから外へ出たい」と未来を欲する表情は新鮮だった。この時、8曲目では潜られなかった♣︎が登場する。テレビは鮮やかなhopeで魅せたような色へと移り変わり、最後の曲は終わった。


《彼》は、部屋に居た。
鞄を持って、出て行こうとする。
躊躇い、テーブルの上へ鞄を置く。
入ってきた扉から出て行く。
もう戻らなかった。

わがままの夜は、終わったのだ。


その場所とそこに居た《彼》については書けたろうか。途中興奮のあまりズレてしまったけれども。
さて、鞄の中身は何だろうか。
私は当初「才能」と書いた。
曲が歌い踊り存在していた世界、でも《彼》は何処から来たのか分からない。迷子のように首を傾げ、声を掛けてくれた女性に荷物を預けてしまう。親から離れてしまっている。ここで《迷子センター》とTwitterで呟くのだがフォロワーが減る。親とはぐれた曲の待ち合わせ場所、再び親と巡り会うための場所、あながち迷子センターというものズレていない気がするけども。インタビューの中で「自分から曲を切り離す」とある。ならば曲に体を貸していると感じるようにいつもの表情が見えないことがあるのも、ミセスの今まで背負ってきた思い出たちを一蹴するような表現方法も、頷けるような気がする。

何処から来たのか。
大森の心から生まれて来た。
そうしていつも彼らは、ミセスそのものであり、ミセスの歴史を背負った。
けれど親からはぐれた時、今までの思い出や、今までのおめかしとは違う姿を魅せる。時に人の手に委ねられて、親以外に服を着せてもらう。生まれ育った人を大切にしながら、成長過程を記念するように特別なメイクをされる。彼らの過去を背負わない姿、親の目を盗むようでもある。

鞄の中身は、《大森元貴の我儘》だったのではないだろうか。または、我儘という原動力に近いものを叶えられないもどかしさ。この夜にわがままをひとつ置いて行く。

二人は何故残されたのだろう。
二人の《わがまま》は、何処へ行くのだろう。
出て行けたのは大森元貴だけ。
彼らは残されている。
ホワイトラウンジが、彼のわがままそのものならば、二人のわがままも何処かの夜にあるのかもしれない。

そう思いたい。



しっかり書くぞ!と思ったけれど、相変わらず綺麗に纏めることには飽きてしまうようで、私が読んだ時、そしてアナログに書き起こしたものを見なければ何を言っているかわからないものになってしまったかもしれない。
けれども良い。
私は私の答えが出せた。


《彼》は、何処へ行ったのだろう。
きっと、私のところだ。
真っさらな姿で、もう一度私のところへ帰ってくる。
きっとそうだ。

おかえりなさい。


紙ぺら一枚でまとまっている

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