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どう書き出せばいいのか迷い、なんとか進めた2000文字を消し、愚かな脳は今また言葉にすることを選ぶ。

Mrs. GREEN APPLE on Harmony

自由で良いと柔く抱かれるように試されたその日々の、そういえば。


セトリが情緒不安定なんじゃ!!
個人的初日の9日はこれに尽きる。
にこにこクラップしていた次の曲で心臓がどこかへ行きそうになってシャツをぎゅっと掴んだり、この曲苦しいんだよなあと思っていたら三人のわちゃわちゃに笑ってしまったり。こちらは食らうだけ食らってしまうけどこの人たちのマインドの切り替えってどうなっているんだろうとその後何日通っても不思議に思うばかりだった。ただどんな時も、音で、目線で、コミニュケーションを取る彼らは観客である私よりずっと楽しそうで、生き生きとしていて、「そうそうこういう人たちを好きになったのよね」と頷いてしまう。

私のHarmonyは9日に始まり翌11月20日にオーラスを持って終わりを迎えた。23年から「セトリが同じだろうと同じライブは無い」と、とにかく会場に入りたい私は5日間のHarmonyを体感することになる。
初日9日、既にSNSではセトリや動画を含むネタバレはハッシュタグを付けることで解禁されており、何度かタップダンスのようにそれらを踏みながらも会場内はいつもと違う緊張感があったように思う。ストーリーラインのライブではない、FCツアーでもない、ゼンジンでもない。彼らは各地を回るのではなく、横浜に根を張り動きはしない。スマホを使う観客が多くを占めることで開催日からSNSにはクラップの手が邪魔だとか何だとかそんな話も見かけたような気がした。私も私自身がどんな楽しみ方を選んで、どんな曲で泣いたり笑ったりするのか、彼らはどんな表情を見せてくれるのか、やっぱりちょっぴり緊張していた。

セットリストのことはさておき、私の中でHarmonyという存在は日を追うごとに姿を変えるライブであった。
初日9日はそのセトリに振り回されることは勿論、「say!」「一緒に!」「ジャンプ!」という聞き馴染みのある声をあまり聞かなかったように思う。引いては打つ波のように攫われては押し戻される曲たちに息をつく暇もなく、MCというMCもなく進んでいく。とは言えど淡々としているわけでもなく、思い出のアルバムを1ページ、また1ページと巡るように進んでいく。スマホを構える人、手を伸ばす人、双眼鏡で覗く人。隣の人が同じ楽しみ方をしているとは限らず、ステージに居る人が足並みを揃えてくれるわけでもない。私はミセスを生で知る最初のライブではライブハウスという場所も今をときめくバンドのライブということも陰キャには厳しく不安感からずっと藤澤涼架を見ていたというのにこの日の藤澤ったら楽しそうなばかりでどうしたらいいのか教えてくれない。たぶん初めてのライブがこれだったら私は震え上がっている。

まずは自分の目で見て耳で楽しみたい私はスマホはいつも通りバッグの中へ入れて、強ばった体でメメルを抱きしめたり椅子に座らせたりしながら過ごしていた。圧倒的なセトリもそうだがオープニングがとても好きだった。大森が登場するより先に泣いていた。音楽は一対一だもんなあ、どんな風に楽しんでいてもいいよなあ、と思う反面、私はどんな風に音楽を楽しんでいただろうか、音を楽しむという感覚を持っていただろうか、と、不安になる。一度不安になるとこれは長く付き纏う。そもそも全編撮影可とは何だ?ローコストな広告、世界中誰からも見られるSNSで発信されることを目的とされているのか、それとも本当に各々が好きなシーンを持ち帰れるために?

と、私は抵抗が拭えなかった。
さびしく、かなしかった。
電子端末で持ち帰ってもあの身体を震わす音は無い、あのステージ、開演時間からちょっと遅れたあのタイミングから、扉が閉まるあの時まで、そこにしか彼らは居ない。スマホの画角や、充電の減りだとか、そんなことに意識を裂かれることが許せなかった。言葉を尽くさずとも共有できてしまうことは、何か大切なものを見失うように思えた。



2日目、3日目、と重ねるごとに、大森からの掛け声が増えたように思う。「クダリのくだり」と呼ばれたそれは長引き、ハロウィンのケセラ前ミニMCでは縦眉毛も披露された。そしてハロウィン31日から、セミファイナル19日までの間にネガティブな私はこう辿り着く。

音楽は、一対一。
自分だけにある音楽の楽しみ方、彼らとの向き合い方、そこに辿り着けない私は、見放されてしまった。だから彼らは掛け声を増やし、いつものような、誰も置いていかない優しい眼差しと空間をくれたのだ。と。

本当にネガティブ。
どれだけ暇ならばこれだけの悲観をできるのだろうと、今振り返ると思ってしまう。

次に、セットリスト。

「自由でいいよ(Magic)」「私と私だけのハグをしよう(Hug)」に始まり、「そのfeelingを信じて疑わなきゃいい(Feeling)」と終わる流れは一貫して「一対一」を示しているように思う。
解き放つような2曲から、咲き乱れた「ライラック」。私は弦楽器の皆様が弓で客席に上がる手と同じようにリズムを刻む様子に何故かとても胸が熱くなりました。会場がぐっとひとつになる瞬間、音楽だってチーム戦で、彼らはステージの上で今培った全てを放って賭けている。すごく素敵だった。
「光のうた」で殆どの照明が落ちて浮き上がるステージ、彼らこそが船であり、集う人は海のようだった。優しいピアノや弦の音は夜の海に見られる夜光虫のようにきれいだった。
続く「soFt-dRink」では、本を抱く大森元貴。
「いつかは酸化して使えなくなんだろうな」と、抱き締められた本は青春の詰まったアルバムのように思える。空気に触れ、酸化して綻び崩れてしまうのなら、もう使いたくないと首を振るように潜んだ眉を、覚えている。そして青春といえば「青と夏」その裏側の「ア・プリオリ」。
キタナァイ マドデェ ナニヲォ じゃないんですよ、大森。そう、5日間一度もアリーナに降りることの無かった私はこの曲を覚えている。暗い客席に無数に浮かんだ汚い窓。スマートフォン、タブレット、光る縁、窓。彼らのステージは感情的であれば良いというものでは決してないけれども分かり易く昂った1曲にこの曲だけはとカメラを向けた人も多いのでは無いだろうか。地に足がつけられないハイキックも、ゆっくりと眼鏡を外した時の目線の鋭さも、振り乱れた髪も、あなたの手を叩く音も、今何も見なくても思い出せる。顔、めちゃくちゃ良かった。もう顔が良かったことにしてほしい。
それで、今夜も思う。
臭ってんのは、おまえか、私か、どちらなのだろうかと。体裁、保身、耳障りの良い言葉で、繕った鏡もまた、窓である。おまえに投げた言葉は全て、私に投げかけられる。

若井滉斗の荒んだ音を引き裂くように藤澤涼架の音で始まる「Dear」。自嘲の笑みも自虐の言葉もまるっと抱いて照らしてしまうようなイントロ。そう在りたいと彼が願っているようなそのままの音。協調性の人でよく周りを見ている、そんな藤澤涼架そのものだと思った。赤くて暗くて焼けた胸の内をすっと光を刺せる音。りょうちゃん。
そして「クダリ」の「くだり」が長くなっていく件について。私は「クダリ」がとても好き。こんなにも私を分かってくれる曲があるんだと聴く度に驚く。本当に何歳になっても虚しい私という海を泳がせてしまってどうしたもんだかねと思う日々。だからその日も私は泣いていた。泣いていて、なんだか演奏が止まって、りょうちゃんが真ん中へやってきて、三人がわちゃわちゃとしているうちに可愛くて笑ってしまった。自分がどうのなど忘れてしまうくらいに彼らの仲睦まじさは私を笑顔にしてしまう。「何にも負けないその貴方の笑顔が」。そう、彼らはいつも願っていて、そんな意図が無かったとしても私にはその曲を体感する一幕だった。特に最終日、三人がソファへ固まって客席を向いた時、「貴方」は「私」だった。

そうして続く曲たちの中に 「Part of me」。
やっぱりHarmonyという世界は彼らの思い出を旅するようだった。彼らが何を奏でて来て、何を届けたくて、何を見せてきたのか。誰しもがこの曲を耳にすれば冷え切った白と鮮烈な赤を思い起こすであろうように、アレンジが施されていても変わらないものにそっと触れるように彼の「愛されたい」は木霊する。そんな彼の、彼らの「今日のこの倖せ」は大森の背中越しに映る客席だった。あたたかい気持ちを一歩ずつ冷やすようなアウトロで扉に向かって階段を一段、また一段と登る大森。彼は消えたりしない、そう2日目以降分かっているのにそれでも心臓を握られたように痛かった。(なお初日はあまりにも怖くてずっと首を横に振っていた。止まれ大森、早く弾き終われ若井。いやはや失礼。)扉の前、振り返った大森が少し微笑んで曲が終わる。


書かないだけで「どうしてもダンスホールに見せかけてあの日の絶叫を蘇らせたいコロンブス」や「ケセラセラ前の謎ミニMC」「Soranjiのスモークが消えなくてfamilie冒頭で足をぱたぱたする大森」「最終日のセッションめっちゃ良かった」など、思い出は幾つもある。日を辿るのなら追加公演が発表される前のオーラス日だったハロウィンは、もうここでHarmonyが終わってしまうんじゃないかと思うくらいに何か胸に来るものがあった。大森のFeelingを客席が引き継いで扉の向こうに消える三人を見送る頃、もう暫く会えないような気がした。それは次のライブでまた会えるという確信無しに、卒業式が終わって次は数年後無いし十数年経ってしまうような寂しさだった。
人は誰しもが一冊、自分だけのアルバムを抱いている。振り返っても、抱いているだけでも、本棚の奥にしまっておいても、「大切にする方法」は人の数だけある。Harmonyを通して彼が何かを読み返し、時に落書きをして、抱きしめた本があるように、私にもまた「Harmony」という本が胸に作られた。それは出会ってからの日々が詰め込まれたもので、その本を作り上げられることで今ある環境から卒業するように思えた。だからあたたかくて、ほんのりさびしい。

最後に。
会いに行くMrs. GREEN APPLEの、会いに来てもらうHarmony。それは勿論「遊びに行こうぜ!」のノリでチケットが手に入るものではないけれど、秋の横浜にミセスがずっと居たことを何となく覚えているのだろうなと思った。いつかまたどこかの街で、どこかの季節をこうして彼らが過ごすのかもしれない。その時に私はまたこの背表紙を撫でるのだろう。

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