Loneliness
それは
「私」と「ミセス」
「偶像の彼」と「人間の彼」
もしくは「私」と「わたし」
かもしれない。
私は絵を描かない、描けないけども、この曲を一枚で表すならばと考える時いつも浮かぶ構図がある。
割られた鏡の額縁だけが残り、食い合うように重なる唇。自分と自分。乱れた髪、よれたリップが汚らしい。私の手に食い込むように絡められた指先から、赤いネイルが溶け出す。拒みたい、冷たい壁にこの身の熱が移るほどに縫い付けられ身動きを許されない。この身を一つにする、重ねる、絡ませるという行為の痛みや、侵食。
これは悦びか、苦しみか。束縛か、解放か。
わたしの中へ這入る私ならば、貴方ならば見定められるかもしれない。確かめたい。
という、どろっとした構図。
相手からの好意、執着、もしくは熱、自分の中で渦となるもの。抵抗してもこの身に注がれる確かに自分では無い温度や粘度に蝕まれる時にだけ現れる束の間の安心感や、相手と私の境目を見失う不安感。それを多幸感と捉える人も居れば、恐怖で泣いてしまう人も居ることだろう。
これは物理的にも心理的にも通ずる話であり、友情であり、性的であり、「私」と「あなた」の話かもしれない。
「私」と「ミセス」となる時、「錆びついた心に油をさして」という言葉は、その通りだと思う。錆びた琴線に触れてくれたのは彼らの音楽であり、彼の言葉だけだったのだから。その悦びにイける程身を委ね、ベッドを離れたとてその音楽が心から離れることは無く、抱かれ続ける。脳と胸は、焦がされ続ける。この身を音で好き勝手していいのは、彼らだけだ。死にたい今日を、この夜の私を、彼に殺して欲しい。
それがもしも、「偶像」と「彼」だった時。疲れ切った偶像が「死にたい」「殺して欲しい」と零すのか、華やかなステージに影を濃くした「彼」が零すのか。「その身を好き勝手」と、偶像が彼を食い破る日が来るのか。巡る気持ちを溢れた結晶として楽曲を偶像へと送り出す時「心を絡ませ」昇華されることは彼が偶像へと甘え委ねるような。
それが「私」と「わたし」の時。
「死にたい今日も仕方がないでしょう?」と始まることのなんと心臓に悪いこと。「私を殺して欲しいのです」と、続くことのなんと甘美なこと。
「死にたい」と思うその夜に、「殺して欲しい」と思い浮かぶ相手が居るなんて、なんて幸せなことなんでしょう。共に逝って欲しいと思えたり、看取ってと思えたり、そう思える相手からだけ与えられる孤独が、涙となる日も、貴方だけがくれる贈り物だと笑ってしまう日も、どれも愛おしい。
救いようがない、人を求め人に溺れ体が汚れることも厭わない私の泣き笑い。
孤独があるから、私は愛する人を求める。私が愛しても壊れない人を探し続けている。脆くてしょうもない人間関係において、身体を重ねても手を取っても毎日愛を囁いても拭えない孤独。それは生きる原動力であり、死の呼び鈴。
孤独が人を出会わせ、身体を重ね、命が始まり、また孤独を抱える人が生まれくる。何をするために生まれてきたのか知らないけれど、心がさびしいさびしいと泣く私だから、私は人を愛する。私の愛に絆されてしまえばいいと思いながら。誇りがあれば、こんなみっともない愛を、人は人に向けないんだろう。上手に綺麗な心で愛が紡げるおまえには分からないだろうと、私は私の愛に触れてまた孤独を知る。
治ってしまえば、
愛の起源は絶えてしまう。
治らない、治るわけがない。
と、言う具合に私は「わたし」と共にこの曲で私にとって生きることの意味である愛へ潜る。彼の生んだ音楽が、体液のようにこの身を巡る感覚がとても愛おしい。どくどくと注がれ、彼のことや、愛について、そういうことしか頭に浮かばなくなる、限られた酸素を与えられるようなもうこれ以上言葉に出来ない悦びを与えてくれる『Loneliness』へ