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雑記『センス・オブ・ワンダー』とAvnøで過ごした日々のこと
私が外出しているあいだ、犬は、おそらくずっと玄関にいる。
帰宅のドアをあけるといつもすぐそこにいる。
「待ちくたびれたよ~」という顔をして私を見上げながら、ねこのように伸びる姿をみて、待ちくたびれるってこのことか、とこの世でいちばん腑に落ちる実例を学ぶ。ずっとここで待っていて、きっと本当にくたびれている。
日本からもってきた文庫本のひとつに、レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』がある。デンマークのAvnø Oasisというエコビレッジ兼ホイスコーレで数か月間過ごすにあたって「きっとそのときにこの本があったら面白いだろう」と持ってきた。
2年半前の金沢旅行、21世紀美術館のミュージアムショップで買ったのだが(そのとき買ったもう1冊が、西村佳哲さんの『自分をいかして生きる』で、これもまたよい出会いだった、今度書こ)、当時初めて読んだ『センス・オブ・ワンダー』はすごく読みやすくて、水を飲むようにすいすい入ってくるような印象だった。レイチェル・カーソンといえば教科書で習った著者だったから、さぞ難しいだろうと構えて読み始めたのだが、そんなことはまったくなかったし、それを読んであらためてぐっと考えたり、何か衝撃をうけたりするようなこともなく「うんうん」と終始うなずきながら読んだ。重くも軽くもなく、「知ってるな~」みたいな、自分とともにある感じがしていた。
しかし実際にデンマーク・Avnøにきてそれを開くと、レイチェル・カーソンの記したことが前よりもしっかりとした重さをもって、深い層までしみこんできた。
Avnøはデンマーク、シェラン島(コペンハーゲンがある島)の南に位置する自然保護区で、数か月のあいだずっとその広い空の下、フィヨルドの落ち着いた水面や風に揺れる木々を眺めて過ごしていた。自分が生まれ育った新潟市の、地元の空気によく似ていた。フィヨルドには白鳥がいて、初めてその風景を見たときに「もしかして」と調べたら、やっぱりそのフィヨルドはラムサール条約(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)登録地だった。自分は新潟市にあるラムサール条約登録湿地で育ったといっても過言ではなく、遠く離れたデンマークのそのフィヨルドに、なんとなく同じ空気を感じた。湿気のある土と乾いた枯草が混じったような、同じにおいがした。
私の母は、新潟で、その湿地へ遊びにきていたとある保育園の子供たちを見て、私をその保育園に入れようと決めたらしい。両親はその土地に家を建て、私たち姉弟はそこで育った。毎日その湿地で遊んで、小学生になるとその湿地のなりたち、生態系の関わりあい、水鳥がどうやってここへ来るのかを学んだ。中学生になると、部活で体力をつけるために毎日湿地の周りを1周走った。砂丘の畑を抜けて、森を抜けて、原っぱを抜けて、学校へ戻る。友人たちも皆そう言う気がするが、私たちはあの湿地で育ったのだった。
Avnøで自然に触れて過ごした数か月間は、そうやって育った子ども時代の追体験のようなものだった。
コースが始まって3日め、"Connecting with nature” というセッションがあった。Metal、Tree、Water、Fire、Soil…など自然を構成する要素と”Connect"する時間。庭、森、フィヨルド、すきな場所ですきに時間を過ごす。
その概論と、メディテーションのガイダンスを受け、「こういう趣旨だろう」と頭で仮定して、外へ出た。中学1年の美術の初回(花や草の気持ちになってみましょう、花や草と話してみましょう、それを描いてみましょう)を思い出しながら。
しばらく「どうやって何とコネクトしようかな~」と考えながら庭をうろうろしていたら、リンゴの木を見つけた。青リンゴがたくさん実っていて、地面にいくつも落ちていた。それをひとつ拾って顔に近づけたとき、そのときはたぶん何も考えていなくて、ただ匂いが気になったのだと思うが、すぐに甘くて深い香りで頭がいっぱいになってくらくらした。それからしばらくそこに座っていた。リンゴの気持ちになるとか、リンゴと話すとかそんなことではなくて、ただリンゴの香りを感じてそこに座っていた。
集合時間になったのでクラスへ戻り、それぞれが感想を共有する時間。"Connectする" という概念的な取組みにおいて、わかりやすい「におい」を使うのはズルかったかなと思いながら、どうしてもあの甘くて幸せな香りの話をしたいな~という衝動に駆られて、それを話した。頭でパズルのように文法を組み立てることをせずに、心からくる素直な感想を初めて英語で共有できたときだった。
『センス・オブ・ワンダー』にも「におい」のことが記されている。
視覚だけでなく、その他の感覚も発見とよろこびへ通ずる道になることは、においや音がわすれられない思い出として心にきざみこまれることからもわかります。
ロジャーとわたしは、朝早く外にでて、別荘の煙突から流れてくる薪を燃やす煙の、目にしみるようなツンとくる透明なにおいをかいで楽しんだものでした。
引き潮時に海辺におりていくと、胸いっぱいに海辺の空気を吸い込むことができます。いろいろなにおいが混じりあった海辺の空気につつまれていると、海藻や魚、おかしな形をしていたり不思議な習性をもっている海の生きものたち、規則正しく満ち干をくりかえす潮、そして干潟の泥や岩の上の塩の結晶などが驚くほど鮮明に思い出されるのです。
やがてロジャーが大人になり、長いあいだ海からはなれていてひさしぶりに海辺に帰ってくるようなことがあったなら、海のにおいを大きく吸いこんだとたんに、楽しかった思い出がほとばしるようによみがえってくるのではないでしょうか。かつて、わたしがそうだったように。
嗅覚というものは、ほかの感覚よりも記憶をよびさます力がすぐれていますから、この力をつかわないでいるのは、たいへんもったいないことだと思います。
2023年の夏、映画『Barbie』を観たときに、いちばん衝撃を受けたのは「木漏れ日」だった。あの作品の凝った構成に唸っていたのに、思わず息をのんだのはただの木漏れ日の描写だった。それは自分が誰だとか、女だとか、男だとか、何歳だとか、どういう性格だとか、何が好きとか、何が得意とか、そういうのをまだ知らなかった、自分が自分でしかなかった頃に見ていた景色だった。
Avnøで、心身で覚えたのは、その景色のような原体験だったなあと思う。大人になった自分で、セッションを受けて、なんとかかんとか英語をつかって、新しいことを頭でたくさん勉強しながら、心と身体でも覚えてきた。においだけでなくて、五感で、その自然のなかに身体を浸した。
新しい環境と、自分が育った環境や記憶、読んできた本、映画、あらゆる経験が結びついて、ひとつの心象が浮かぶのはすごく面白い。こういうのが面白くて、生きてんだよな~!と思う。
ところで今日知り合った方は、デンマークの「森のようちえん」に関わる仕事をされている保育士さんで、その方と話すなかで『センス・オブ・ワンダー』のことを思い出したので、今これを書いている。(参考:「デンマークの森のようちえん」)
デンマークへ渡航しようと思ったきっかけの一つは、北欧の教育を受けてみたかったからだ。そして、そこで育った人が構成する社会で生活をしてみたかった。デンマークで子ども時代を過ごすことはもう叶わないが、デンマークの教育観を代表する「フォルケホイスコーレ」で学ぶことはできたし、子どもにとっての原体験のような時間を、追体験的に味わうことができたと思う。さらにホイスコーレでは「この自分でこれからどう生きていこう」というところまで具体的に考える、計画する時間がほんとうに充実していた。原経験から未来へつなげていくという点において、すばらしい数か月を過ごしたなと思う。
新潮文庫の『センス・オブ・ワンダー』には、巻末に「私のセンス・オブ・ワンダー」という寄稿が収録されている。そのうちのひとりは、角野栄子さん。『魔女の宅急便』の著者である。ジブリ映画はもちろん、原作『魔女の宅急便』を子供のころに夢中で読んだから「見えない世界からの贈りもの」と題された、『センス・オブ・ワンダー』に寄せられた角野さんの文章が、今、ここにあることがすごくうれしい。とくに好きで何度も読んでいるのはここの部分。
ものごとが進化するというのは、人がそう進化してほしいと願うから、進化するのでしょう。進化には、人の願いが込められているのです。原始の人だって、たとえば器に込めた願いがあったはずです。手で運んでいた水を、くぼみのある葉っぱにいれるとか、土器を作ってみたりとかして、こぼれないようにしたいという願いがあって、それで工夫して進化してきたのですから。だから、あらゆるものが、人の願いのかたまりなのです。でも、いまはその「人の願い」が、想像力や人間特有の力を削いでいっている気がしてなりません。人の願いに、合理性や効率といったものがくっついていると、危ないという気がします。でもその進化は、止められないとも、私は思う。だから、それを超えていく力を子どもたちに贈る教育ということを考えないといけないと思うのです。
効率や合理性が追求されていても「それを超えていく力」、「想像力や人間特有の力」が、土壌にしっかりと根付いていて、そして耕され続けている場所。自分が生きるならそういう環境がいいし、それを耕す一助になれたら、と思っている。
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ストレージへ入れられて、11月頃に私たちが食べていたのはこれかもね。朝食係も楽しかったね。
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