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noteはじめます。

こんにちは。marinaです。
ワーキングホリデーで、デンマークに滞在しています。
時間があり、心身が落ち着いているこのタイミングで「ずっとやってみたかったけど距離をおいていたこと」をどんどん始めてみようと思い、そのひとつとして日常的なnoteを始めてみました。

そもそも私は「書く」ことがすきで、毎日、紙のノートに頭の中の要素をブワーっとひたすら書いています。子どものころから作文がすごくすきだったのですが、ここまで習慣的になんでもかんでも書くようになったのは、社会人3年目くらい。「やらないとしぬ」というような危機感に迫られて(タスク管理と、落ち着いた業務の遂行がまったくできなかったのです)毎日見開き2ページのタスク管理ノートをルーティン化したのが始まりです。脳の中にある形のないモヤモヤは、手を介して紙に落ちるときに形になります。いったん形として視覚化すると「ああ 頭の中にあったモヤモヤはこれか」とわかります。視覚化できた物事はさらに、紙の上でどんどん細分化することができます。細分化するとやっと、対処方法を組み立てることができるようになります。そこまですると「このノートを見れば全部書いてあるから大丈夫」と、頭の中のモヤモヤはなくなります。心が落ち着きます。そのときからノートは脳の外付けハードディスク。手元にあると安心するツールです。

退勤後も車に乗り込んだらまずInstagramをひらき、その日の写真とともに頭の中をブワーっと書き出していました。こんなに考えて考えて考えて考えて1日を過ごしているのに、時間とともに忘れてしまうのが癪だったから、どうしても残しておきたかった。書くと、考えごとはデバイスの中に移り、頭の中は空っぽになります。それは仕事モードの脳をシャットダウンするための儀式のようなものでした。

それから5年ほど、毎日毎日手を動かしてひたすら書いています。

2年前にそれまで続けていた仕事をやめた翌日から「やらないとしぬ」ような危機感はなくなり、現在地を確かめる手段として、もっと主体的に「書く」ことをするようになりました。ノートに思考を素直に落として、自分の目でみて確認し「うん、わかったよ」というように自分で自分に接しています。書くことを通じて、自分のハートの深層にアプローチできる気がします(それが初めて「できた」日のことをよく覚えていて、その感覚を失わないように繋ぎとめて現在地まできたので、そのこともまた書きたいなと思います)。

今年の夏にデンマークにきてからは、フォルケホイスコーレという教育機関に通いました。そこで過ごした数か月のあいだもこれまでどおり書くことを続けていました。個人的にそれをするだけでなく、ファシリテーターからテーマを与えられて書く時間も多くありました。自分の現在地を確認するような時間です。「書く」ことの自己対話としての意義をさらに広く、体感で学ぶことができました。付箋に、いつものノートに、授業ノートに。色んなところに書き出して、またそれを録音する・毎朝聴く、という手法も経験しました。誰かにファシリテートしてもらってそれをすること、自分にない視点からのアプローチはすごく面白かったです。
(とくに、異なる言語話者、異なる文化圏を生きる人、による導きがなおさら面白かったのかもしれないなと今思いました。その方はウクライナ語話者でしたが、さらに英語を媒介して日本語話者の自分が受けとる視点はいつも、ふだんの自分では到達し得ないポイントだったなと思います)

そんなこんなで「書く」ことが昔からすきで、さらに近年は主体的な技術として使いこなすことが面白くなってきたので、ここにも書いてみようと思います。「noteに書く」という行為にはなんだか正解(の書き方)があるような気がしていて、少し書いてみるといつも「やってんね」みたいな文章になってしまうのが自分で気持ち悪くて少し気が引けていたのですが、やっと「主体的に書くことについてそんなものは関係ない」という心持ちになってきたので始めてみます。

やってみたいこと、日本で生活するなかで考えていたこと、デンマークにきて学んだこと、ただの日常、本の感想、ラジオの感想、面白かったこと、立ち止まったこと、取るに足らないこと、、を記録できたらいいなと思っています。きわめて個人的に!(といいながら、インターネットに公開するのですが、個人がここにいるよ!と手を挙げるような気持ちでこれを始めようと思います)

よろしくお願いします:)

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ヘッダーの写真は、デンマークにきてもっとも「幸福」を感じた場所。Ananda Gaorii というアシュラムの施設です。

私は吉本ばななの小説がすきです。何をどうしたらいいかわからない、八方塞がりの日々のなかでいつも同じ作品ばかりを読んでいました。キッチン、アムリタ、サーカスナイト。それらを読んで窓を開けて眠った日の甘い夢。あの幸福感を覚えています。

この場所に来た初日。2階への階段を上がり「ライブラリです」と案内いただき足を踏み入れたとき「ああ、ここに着いた」と思いました。吉本ばななの小説で、主人公が何かの流れで辿りつく場所ってこんなところだった。それが目の前に現れた、私は今そこにいるのだ、と不思議な感覚に包まれました。私も自分にとってのそこに辿りついたのだと。

場所のもつ力。そこでその場所を築いてきた人たちの力。日々を続けてきた、続けていく力。いつも誰かが来ては去っていく流れのもたらすもの。私がここに来たタイミング・・・すべてがかかわりあっていた、他にない空気があった西日の時間でした。「調和」ってきっとこのことをいうのだと思います。

また別の機会に、あらためて書きたいな。

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