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「才能」とは?「努力」とは?才能と努力の認識を変えれば見えてくるもの。

「自分には才能がない」
「自分の持ち味がわからない」

そんな声を今まで色々な人から聞いてきたし、今でもそういう相談はよく受けます。気持ちはよく分かるし、ぼく自身もそう思ったことは多いです。


ただ、持ち味や才能の有無を判断する時多くの人が間違った判断基準を持っていることも確かです。ほとんどの人は自分自身の持つ才能や持ち味を、無意識の中で「比較」している。他者と比較している。


「自分は英語が得意だけど、世の中にはもっと上手な人がいるから」
「この程度で好きとか得意とか言ったらだめ」


そうやって他者と比較して自分の才能と持ち味を封じ込めて無かったものにしている人が多いなと思う。でもそれをしてると、何もなくなってしまうんですよね。何者でもなくなってしまう。それは悲しいし、そうなってほしくない。


世の中は誰かの才能で出来ています。これはもう間違いなく。努力は才能を超えることはできません。悲しいけどそれが現実。そもそも、努力は0を1にする作業じゃない。1を100にする作業のこと。自分の好きなこと、熱中していること、永遠に継続できることに力を注ぐ。そうして1を100にしていく。努力してるかどうかは自分ではわからんけど、周囲からすればそれは努力に見える。


好きなことに注力すればいい。
好きなことに熱狂すればいい。


好きでもない、続けたくもない「0」を努力でなんとか「1」にしようとしてるなら辞めたほうがいい、努力はそういう使い方をするものじゃない。0は1にはならない。だから、好きじゃないことはしなくていいし、続けたくないことはさっさと辞めたほうがいい。


「才能」や「持ち味」は必ず誰でもあって、ただそれに気づいていないだけ。気づいたら早い。そこからそれだけに熱中して熱狂していれば、必ずそれだけで生きていけるようになる。世界を作ってるのは色んな人の「才能」。その才能を更に磨くのが「努力」。好きでもないことにいくら努力の水を上げても、才能は開花しない。


「天才」は存在しない。自分の才能にいち早く気づいて、その才能をすぐに磨き始めた。でも周囲はその人のその努力は知らない。だから、先天的に得たものだと勘違いして「天才」とかいう。それはもはや失礼に当たる。世界が天才と呼ぶその相手を、世界は勘違いしているだけ。


努力も忍耐も必要ない。必要なのは自分の持ち味を「見つけること」と「気付くこと」。これさえできてしまえば、努力しないといけないという常識は非常識になって、見ている景色は変わっていくと思う。

沖縄おいで~