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【宗教二世】違和感を感じ始めるまで

2022年の安倍元首相の銃撃事件をきっかけに、「宗教二世問題」への注目が一気に高まりました。
ただニュース番組等で取り上げられる事例と、我が家の宗教は少し違っていました。

「ムチで打たれる」「輸血禁止」等のルールも我が家の宗教では適用されず、謎の壺を買ってくるとか、何千万円も献金しているせいで貧乏になる、といった事もありませんでした。簡単にいうと「わかりやすい虐待行為」はなかった、ということです。

また、この時点で宗教の活動から離れて数年が経過していましたが、まだ宗教の教えを少し信じている自分がいました。「いつか心から信じられる時が来るかもしれない」とも思っていましたし、心のどこかでそれを願っていたような気もします。
(この辺りの気持ちの変化は、また別の機会に書かせていただこうと思います。)

なので当時私は、世の中には「明らかに間違っている宗教がある」とはわかりつつも、我が家の宗教がいわゆる「カルト」なのか、断定はできないなという気持ちでした。
そして「宗教二世として苦しい子供時代を過ごしてきた人たち」がたくさんいることは事実、でも自分は違う、自分の親は正しいはずだから。そんな風に思っていました。

宗教=バレたくない

現代の日本で信仰を持つ家に生まれるということは、どちらかというとマイノリティですよね。特にそれが新興宗教と呼ばれるものであれば、子供の場合「あの子の家は宗教をやっている」とバカにされることがあります。

私の場合、小学校・中学校でそれぞれ一回ずつですが大勢の同級生の前で宗教のことを理由にからかわれたことがあります。あの時の心臓がえぐられるような感覚、誰にも相談できず傷付いた心は、そのまま放置されていました。

社会人になってからも、友人や同僚との何気ない会話の中に宗教の話題が上がることがありました。(特に選挙シーズン)
みんなと一緒になって「やばいよね」と言ってしまう自分。
私がその宗教の信者だと知ったら、あっという間に噂になるだろうと恐くなり、とにかくバレないように振る舞うことに必死でした。
まだ少し信仰心が残っている状態ですので、罪悪感というか、バチが当たるかもしれないと本気で怯えていました。
こうして考えてみると、他人と自分との間に壁を作るようになったのは必然だったような気がします。

多くの宗教二世の方たちにとって、「宗教を信じている」というよりは「親を信じている」という感覚が正しいのかなという気がしています。
『親が信じているものなんだから、間違っている訳ない。』
つまり信仰心が向いていた対象は、宗教ではなく親だったのかなと思います。

大人になるにつれ「親も人間」、「間違うこともある」と頭では理解しても、「根本的な部分は正しいはず」と信じたい子供が多いのではないでしょうか。

ただ宗教二世の方たちの経験談などを読んでいると、私より大分早いうちに「違和感」を感じている方が多いように感じます。
小学生、中学生のうちに「おかしい」と思えたという方が羨ましいなと思います。私はかなり大人になってからようやく気がついた人間ですので……。
(どれだけ自分の意思や考えがない人間だったのだろう。)

「正解」が決まっている家

子供の頃、私の母は近所の同じ宗教の同世代の子を褒めるとき、必ず「素直でいい子」というフレーズを使っていました。「いい子」の定義として、親の言う事・宗教の教えを疑わずに信じる「素直さ」が必要だったのです。

宗教活動を頑張る子が「いい子」であり、この宗教の教えを素直に信じることが「正しいこと」であり、脱退したら地獄に落ちる。
こういった暗黙のルールが存在していた家庭環境で育てば、常に「正解はもう決まっていて、それができない自分はダメな人間」と、自己否定が強い性格になってしまうのは当然だと思います。

「洗脳」されていたのか?今もわかりません。
間違った思想を植え付けられていたというよりも、「自分で考える」とか「自分で選ぶ」という選択肢を奪われていた、という方がしっくりきます。

暴力行為がなかったとしても、「思考に制限を掛けられていた」、「誰にも言えず苦しかった」と感じるのであれば、それは間違いなく「宗教二世としての問題・悩み」だと思います。カウンセラーや信頼のできる人に相談するなど、自分の人生を取り戻すための一歩を踏み出して欲しいと願います。

宗教自体の善悪は関係ない

極論「宗教自体が悪なのか」、「神や仏は存在するのか」、「我々は何のために生まれてきたのか」「死んだらどうなるのか」といった哲学的な問いは絶対的な正解がある訳ではなく、個々人によって、またその時々の状況によって解釈が変わってくるものだと思います。

論点は「その宗教が正しいかどうか」ではなく、あくまでも「自分が辛かったかどうか」なのだと思います。判断の基準が「自分自身」であること、だから辛いものは辛い、それでいい。
ただ宗教には、たったそれだけのことを「考えさせないようにする力」があるのですよね。

これまでのnoteでも記載したように、「悩んではいけない」と考えているうちは、見えていない世界があったと実感しています。
「私には悩みがある、そしてそれは当然のことなんだ」と理解できた時、私はようやく「宗教二世」に関連する書籍を読む勇気が持てました。心理カウンセリングに通い始めることもできました。ここに辿り着くまでに一体何年掛かったのでしょう……。

「カウンセリングで宗教の事を悪く言ったら、天罰が下るかもしれない」
そう思っていた自分にゾッとします。笑

あの頃の私へ。
「とりあえず今のところ、何も悪いことは起きてないよ!」

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