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唯一無二のWAGYUJIROへ
「唯一無二」という言葉は他に代替するものがなく、並ぶものがないことを意味する。WAGYUJIROは、まさにそれに当てはまるだろう。
誰がなんと言おうとWAGYUJIROは、人生最高の一杯だ。
ラーメン評論家の方々は、WAGYUJIROを二郎系インスパイアの高級版とか表したりする。
まあ、それが稼業なので否定するつもりはない。でも、どこかでオリジナルを越えられない事を遠回し言っている様にも解釈できる。
コロナ渦もあり、お取り寄せではあるが何度も食べている。食べる度に、毎回忖度なしでジャッジする。
麺、スープ、チャーシュー、背脂など、全てにおいて進化している。
まるで、顕微鏡のようにピカピカに細部まで磨きあげられている。
そんなWAGYUJIROが、また進化する。
この記事を読みながら、また気絶体験ができると思うだけでワクワクしてくる。
そんな事を話していたら、思い出した。京都の龍安寺の石庭は、砂が海、石が山を表していて、石は15ある。しかし面白いことにこれらの石は、どの角度からみても14しか見えない。必ずひとつの石が隠れてしまうように配置されているのだ。東洋で15という数字は“完全”を表す数字。つまりこの庭は“不完全”な庭だということだ。常に足りないものを見つめ、次を探さなければならない、そして今を感謝することを忘れてはならないというメッセージが込められている様に思える。
新しいイノベーショを注入しながら、完全を追い求める精神には脱帽だ。
そんな事を考えた梅雨の朝だった。