見出し画像

6月11日(土):「何かあったらどうすんだ症候群」への処方箋②

昨日は為末氏が問題提起をされていた「なにかあったらどうすんだ症候群」に関連したことを記しましたが、本日もその続きをもう少しばかり。

昨日は症候群への処方箋としてリスクに対する捉え方として種類、程度、時間軸の観点、組織の文化における評価軸や心理的安全性のことに触れました。

医療だったり、公共交通機関など人命に深く関係する領域で安全を最優先しなければならない現場では当然ながらリスクへ慎重になるのは理解ができます。

ただ、そうした領域であっても盲目的なリスク回避や安易な逃げに走らずに事柄と真正面から向き合っている現場や人のもまた事実でしょう。

書籍「ケアとは何か(村上靖彦著)」では看護・福祉で大事なことに触れていますが、同書では著者の祖母が手術のために入院した際に安全への配慮(点滴の管を抜かないように)という名目のもとで身体の一部拘束があった事実を説明しながら、それと対比する形で都立松沢病院での取り組みを紹介しています。

具体的には「『身体拘束最小化』を実現した松沢病院の方法とプロセスを全公開」という書籍の一部を引用する形でそれが出てきます。

松沢病院では一般的な病院のように「拘束する同意書」ではなく、それとは反対に「拘束しない同意書」を家族からもらい、自由に動く患者を見守り、おむつを外したり体操を導入するなど、活動性を上げるための試みを重ねてきたといいます。

書籍には同病院のケアラーである看護師の会話が引用されていますが、それは以下のような内容でした。

「『患者さんは転ぶんだ』『なぜ転ぶのか、患者さんは何がしたいのか考えよう』という認識に至ったんです。その空気が醸成されてくると、みんなで『もっと患者さんに動いてもらおう』という気持ちになってきました。」

「寝かせきりにするのではなく離床し動いてもらうことで、患者さんの活動性が高まりました。拘束を外してみても問題のない患者さんが多かったことで『今まで何のために拘束していたんだろう』『私たちの安心のためだけにやっていたのかね』という先輩の声を聞いて、取り組みの意味を理解しました。」

一般的な病院と松沢病院では、どちらが患者やその家族の気持ちが尊重され、前向きでいられているのかは想像に難くありません。

著者である村上さんも拘束については医療的安全性を満たす意味ではひとつの手段であるし、やむをえない事情があったのかもしれないけれども、当事者の気持ちに立つケアの仕方としては不十分な面もあったのでは、との問題提起です。

先に触れた松沢病院でも拘束を減らす取り組みを始める以前は、きっと「拘束を外して何かあったらどうすんだ」という声があっただろうと推察します。

でも、そうしたなかにあって「本来の目的はなにか」「誰のための医療、ケアなのか」という類の問いを立てる人がいて、それを根気強く浸透させていくことで段階的に望ましい形に近づいていったのだと思います。

そして今となっては「何のための拘束だったのか」「もしかして私たちの安心のためだったのか」という振り返りにも至ったのでしょう。

先の例でいえば「何かあったらどうすんだ」は安心や安全、管理者側の秩序は守られるけど、反面で患者や家族の気持ちや尊厳、可能性を制限していたといえます。

こうした事例から見えてくる処方箋のひとつは、前述したような「本来の目的は何か」や「誰のためなのか」といった問いを立て、根源的なところに立ち返ることがリスクとの向き合い方を変える、ということなのだと感じた次第です。


いいなと思ったら応援しよう!

フィットネスビズ
宜しければサポートお願い致します!