ピアジェの発達理論
ものの価値は移り変わる。ふと目にしたゴミのようなものも、将来大きな価値を持つかもしれない。あるいは、現在価値があるとされているものも、その価値を失う日が来るかもしれない。
科学の世界では、多くの人が決定論、行動主義、物理主義の価値を信じている。しかし、科学の世界では、常に、過去の理論は、新しいアイディアの追加によって乗り越えられてきた。真に新しく価値のあるアイディアがすぐに受け入れられるとは限らない。メンデルの理論やガロアの理論、ベイズの理論など、生前にはまったく受け入れられなかったが、その後価値が発見された。
ピアジェの理論とは?
ピアジェは発達心理学と呼ばれる研究領域の祖。自身のこどもを観察・研究した哲学者。ピアジェは、常々、実験をしない哲学者を批判していた。もともと科学と哲学は区別されていなかった。ただ、実験を重視する哲学者が現れただけ。ピアジェは、自分自身で実験することで思考を深めていった真の哲学者だ。
ピアジェは、自身の思想を、ダイナミック・カントであると言う。カントという哲学者は、経験主義と合理主義という2つの伝統は両方正しいと考えた。つまり、二元論である。人は、ア・プリオリにもっている知識と、経験によって得る知識の2種類がある。経験主義・合理主義のどちらもある意味正しいとした。
だが、ピアジェは、カントのいうアプリオリは、発達において変化すると考えた。つまり、ダイナミックなカントである。
科学では、経験主義と合理主義だけではなく、さまざまな二元論が問題になる。たとえば、主観と客観である。科学は客観的なものであり、主観は研究できないと主張される。しかし、ピアジェは、こういった二元性は避けることができないが、主観と客観が相互作用する様子は、発達を見ることで理論化できる。そして、この変化のメカニズムは、1つの共通するメカニズムによって説明できると考えた。
つまり、ピアジェはカントの二元論の先へ向かうために、発達原理の学問を構成しようと考えた。
発達とは?
ピアジェは、このように、主観・客観のような認識哲学の問題を、発達という「変化」の理論としてまとめあげようと考えた。乳幼児の発達研究はピアジェの代名詞であるが、関心領域は、それだけにとどまらない。
彼にとって、変化のメカニズムはただ1つである。それは、生物の進化、知能の発達、科学の進歩、社会の発達など、すべての変化に共通するメカニズムでなければならなかった。
ピアジェは、発達を、ちょうどガロアの理論のような構造発展であると捉えられていた。どういうことか?
ガロアというのは、若くして亡くなった数学者。数学という学問を変えたといわれる変革者であるが、生前は理解されず、論文はリジェクトされ続けた。終いには投獄され、決闘によって若くして亡くなった。ゴミのようにみなされた理論が、数学者にとっては宝物になった。
数学では、なにか都合が悪くなると、新しい数を追加するということがよくある。たとえば、ものを数えるとき普通は、正の数しか存在しないはずである。負の数を数えるなんてことはない。ゆえに正の数は自然数とよばれる。
しかし、足し算の逆演算をすると、どうしても負の数がないと都合が悪くなる。だから、数学者は、負の数を新しく定義して追加してしまう。同じようなプロセスによって、有理数や実数や虚数、次元など、新しい考えがどんどん追加されていく。
ピアジェが考えた発達というのは、このように、今持っている知識の体系で不都合が生じると、新しい考え(構造)を追加することであった。この新しく構造を追加することを「調整(accomodation)」と呼んでいる。
一方で、そういった構造の追加は頻繁に起きるのではなくて、長い時間、拡張をせず、いま常識となっている構造に還元して理解しようとする。このように、自分が持っている構造で、無理やり世界を理解しようとすることを「同化(assimilation)」と呼んだ。
ピアジェの発達原理というのは、このように、同化と調整の繰り返しであるということである。
段階説
数学で、新しい数が定義されることで構造が拡張する様子を小学校から中学校にかけて学ぶだろう。
物理学でも、ニュートンの力学が提案されたあと、すべての物理現象がニュートン力学に還元できると信じられていた。しかし、実際はそんなことは不可能であって、新しいアイディアが追加された。熱力学、電磁気学、量子力学、相対性理論などである。これらの新しい理論は、ニュートン力学と両立可能であるという点が大事である。ピアジェの発達理論では、過去の構造は、なくなってしまうのではなく、新しい構造に統合され、より一般性の高い知識へと変化するのである。
乳幼児の発達も、科学の進化もどちらも、同じ「同化」と「調整」によって生じるとピアジェは考えていたのだから、この2つのメカニズムの性質ゆえに、発達というものは、階段状の進むはずであると考えた。
これが、発達の段階説である。実際、ピアジェは観察によって、乳幼児の発達も段階に分けることができると主張した。
同化は、現在もっている構造でとりあえず満足している状態。新しい価値をゴミとみなしてしまうこともよくあるのである。しかし、一旦「調整」によって構造が変わってしまえば、ゴミだったものが宝物になってしまうのである。ガロア理論やメンデル理論のように。
ピアジェの進化論
ピアジェは、生物の進化や発達だって、同じメカニズムで生じると考えていた。ダーウィンのような、機械論的なランダム変異と自然選択による説明ではなく、「同化」と「調整」というメカニズムが働いているはずであると考えていた。
実はピアジェは、乳児発達の研究の前には、生物の発達、いまでいうエピジェネティクスの研究をしていた。この経験から、彼は「同化」と「調整」のメカニズムを着想したらしい。
実際に、生物で「同化」「調整」が見られるかはわからない。しかし、生物の進化でも、数学において新しい数が追加されるように、新しい機能が追加される様子を観察することができる。
なぜ、生物は、水の中で生きるためのエラシステムを進化させて、肺を持ち、陸上で生きることができるようになったのだろう。なぜ、生き物は、ヒレを進化させて、腕や手指を進化させ、歩いたり、ものを掴むようになったのだろう。
狭い世界の中で生きている限りは不要だった新しいアイディアを発明し、それを新しく追加することで、世界を広げる様は、まさに知能の発達、科学の発達、社会の発達にとても似ているのである。
ランダムな突然変異と自然選択だけから、新しいものが追加される理由を説明できるのだろうか?(ランダムなのであるから、先祖返りの方向に進化してもいいはずである。なぜ、クジラはエラ・システムに戻らないのか、ダーウィンの理論は説明できるのだろうか。)
機械論の誤り
機械論、あるいは、マルコフ過程、決定論というのは、過去の物理状態が原因として完全であって、真に新しい要素が追加することはなく、過去がすべてを決めると考える。
ピアジェにとって、このような世界観は到底信じられなかったであろう。なぜなら、世界には、とくに生物の世界には、新しい構造が追加される事例が無数に存在するからである。
しかし、残念ながら、現状の科学では、機械論や決定論がマジョリティであって、創造性、自由な意思、そのようなものはゴミのような価値しか持たない。マルコフ過程で生物をモデル化できると信じている人たちが極めて多い。
ピアジェの「同化」のプロセスは、世界の見方を狭くしてしまう。因果は相関に還元されるから、本当は因果などないとか、自由意識は決定論で説明できないから、錯覚であり、存在しないとか、負の平方根など存在しないから二次方程式は一般には解けないとか、科学は過去に、なんども、「同化」を過剰に行うことで進歩を止めてきた。そして、新しいパラダイムに拡張(調整)することで、より広い世界を説明できるようになった。
ピアジェの二元性、そして、同化と調整による相互作用メカニズムは、現状の科学ではほとんど無視されている。皮肉ながら、科学者の多くが、機械論・決定論・物理主義を信じて、それで説明できない生物プロセスを妄想だとか錯覚だとか言っていることが、ピアジェの発達理論における「同化」および発達の段階仮説と整合するのである。
おわりに
科学者というのは、往々にして、説明できない現象に目をつぶり、ひどい人になると錯覚であるとか妄想であるとか言い出してしまう。
かといって、実際にエーテルだとかエンテレキーのように、否定された概念はあるのだが(エーテルは厳密にいうと決着はついていないというほうがフェアだが)、エーテルについては、「同化」ではうまくいかず、「調整」が必要になったことを示しているように見える。ケプラーの楕円仮説にしても、例外だらけで、「同化」がうまくいかないという臨界点を超えて、ケプラーの神学上の美観が楕円仮説を着想させたのである。
新しいアイディアは、過去に存在しないから「新しい」のである。これは当たり前のことであるが、なぜ、マルコフ過程信者や、ラプラス的な決定論者は、「新しさ」を否定して、すべて過去が決定し、自由は存在しないというような妄想を信じることができるのだろうか。
科学において、過去に「説明できないから存在しない」というような説が実証されたことなどはい。実際は逆で、説明できなかったことを説明できるような理論が提案されることで、科学は拡張されてきたのである。
否定されたのは、過度な一般化や還元によって妄想された概念のほうである。つまり、既存の知識の枠組みで無理やり作り出した概念が否定されてきたのである。しかし、決定論者にはこの区別は難しいようで(なんせ新しさは存在しないのだから)、理解できないものは存在しないことになってしまい、真に価値のある新しい考えは無視されるのである。
ピアジェの「同化」と「調整」のメカニズムがはっきりと理解できれば、「同化」による視野の狭さによって、本当の価値が無視されることはなくなるのだろうか?それとも、人は「同化」を好むのだろうか?