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スペリーの創発主義


ロジャー・スペリー

ロジャー・スペリーは、ノーベル賞を受賞した神経科学者で、とても影響力があったようです。スペリーは、1960年代から創発主義に影響され、還元主義や行動主義を批判する論文を書くようになりました。

スペリーの共同研究者の1人であるガザニガは分離脳患者の実験で有名ですが、「右脳と左脳を見つけた男-認知神経科学の父、脳と人生を語る」(ガザニガ著、小野木明恵訳)に、当時のことが記されています。とても興味深いのでここでまとめようと思います。

創発とは

プリンストン大学の一流物理学者フィリップ・アンダーソンは1970年代に「More is different」という題名の有名な論文を書いた。このなかでアンダーソンは「還元主義者の仮説は決して「構築主義者」の仮説が成り立つことを意味しない。すべてのものを単純な基本法則に還元できるからといって、そうした法則から出発して宇宙を再構築できるということにはならない。実際のところ、素粒子物理学者が基本法則の性質について説明すればするほど、他の科学分野にある実際的な問題や、ましては社会的な問題との関連性がなくなるように思われる」と書いている。これは私から見ると、急所を突いた指摘である。

右脳と左脳を見つけた男、P386,ガザニガ著

それでも、創発という概念はなかなか容易には受け入れられなかった。とりわけ神経科学者が抵抗した。どうしてなのか?極端な還元主義者は、機構には複数のレベルがある、すなわち、物事が実際に起こる理由を理解するための因果の連鎖に異なる複数の層が寄与しうるという考え方を受け入れるのに苦労する。たとえ受け入れても、高次の事象は、低次の事象によって予測されえないという、創発につきものの根本的に新しい概念を受け入れることができない。

右脳と左脳を見つけた男、P386、ガザニガ著

先にも述べたように、この概念はとてもろらえにくく、きちんと理解するのが難しい。50年前にスペリーがこの議論に火をつけた。ヴァチカンで開かれた会議で、次のように挑発したのだ。
「行動科学の実践において、脳を、その内部と周囲において作用している物理的および科学的な力の手先にすぎないとみなさなくてはならないというわけではない。現実はまったく違う。分子は多くの点において、その内部にある原子と電子の主人であることを思い出してほしい。ある分子自体が、ゾウリムシのような単一細胞でできた生物の一部であるとしたら、その分子は次に、自身の部分やパートナーとともに、ゾウリムシのもつ外的な総合力学によって主に決定づけられる時空内に起こる事象の経路に従わざるをえなくなる。同様に脳の場合も、単純な電子や原子、分子、細胞の力と法則は今なお存在し作用しているにも関わらず、脳力学においては、高次の機構が持つ配位力によってすべてが交代されたことをつねに念頭に置くべきである。もっとも高い次元である人間の脳においては、そうした力には、近くや認知、記憶、推論、判断などの機能的、因果効果的な力といったものが含まれる。脳力学においてそうした力は、内部に存在し大きく差をつけられた科学的な力と比べて同程度あるいはそれ以上に強力なのだ」(Sperry, Brain bisection and mechanisms of consciousness, Brain and Conscious Experience, pp. 298-313, 1966)

右脳と左脳を見つけた男、P387、ガザニガ著

大半の科学者と同様に神経科学者たちは極度な還元主義者であり、スペリーの考え方は実際には根付かなかった。そういえば、ジョセフ・ボーゲンがとてもおもしろい自叙伝のなかで、カルテックのスペリーの同僚たちは彼にその話題から離れたほしがっていたと書いている。しかし同時に、この考え方は哲学者の間で広く検討され、多くの考察や反応が引き出された。彼らは、スペリーの「交代」(supersede)と「併発」(supervene)という言葉の使い方について議論した。

右脳と左脳を見つけた男、p388、ガザニガ著

併発の議論によれば、局所的な低次の違いなしに、大域的な高次の違いはないとなる。併発を支持する物理主義者や物質主義は、心理学的、社会的、生物学的レベルは、物理的、化学的なレベルに併発すると主張する。スペリーが「交代」や「大きく差をつけられた」というときには、併発以外の何かを漠然と指しているーレベルnのほうがレベルn-1よりも自由に流れるというようなイメージを。頑迷な還元主義者はそこに巧妙なごまかしを見て取り、決定論者のスペリーが神経細胞の発火ではない何かについてとつぜんに議論を始めたと文句を言う。

右脳と左脳を見つけた男、p388、ガザニガ著

所感

スペリーが創発主義を主張したころの周りの反応が面白いですね。ガザニガの本で以前読んで面白いと思ったのですが、どの本だったかなかなか思い出すことができませんでした。探して、やっと見つけました。「右脳と左脳を見つけた男」でした。
(スペリーの引用のところで、配位力という言葉がでてきますが、これは、おそらくConfigurational forceを訳したものと思われます。)

周りは懐疑的で、スペリーにこの話題をやめてほしいと思っていたと書いてあります。たしかに、スペリーの論文を読むと、一体、どうやって、高次レベルが低次レベルに対して自由になるなんてことがあるのだ、と言いたくなるでしょう。創発という言葉がそもそもよくないという気はしています。創発主義が言っていること自体はそれなりに筋が通っているのですが、創発という言葉は、何か未知の力によって、不可思議な現象が無から生じるようなイメージを与えてしまいます。なので、私は、創発主義には賛成ですが、創発という言葉はあまり使いたくないです。(スペリーも論文中では創発ということばをほとんど使っていないと思います。)

彼(ドイル)の研究の中核には、創発の概念に対する不信があった。創発は薄気味の悪い不確定なものだと感じているのだ。ドイルは工学的な観点から、実際に何かを設計し構築するという具体的な視点におけるレベルでの説明を心がけていた。何かが実際に構築されて機能を果たすとき、創発的な特性があるように見えることがよくあるが、実際にはそうではない。相互作用する部分という観点から理解されるべきなのだ。

右脳と左脳を見つけた男、P390、ガザニガ著

基本的には、このドイルの立場には共感できます。理由もなく、高次が低次を支配し、自由を得るなんてことがあったら、そんな薄気味の悪い理論には賛成することができません。私は、「創発」という単語が誤解を招いているのではないかと思います。私の立場は、創発主義によって主張されてきた「下向きの因果」は、設計し構築することができるもので、むしろ工学的な題材だと考えているのです。

この「右脳と左脳を見つけた男」という本は、ガザニガの伝記なのですが、スペリーだけでなく、ファインマンとか、ルドゥー、リゾラッティ、ラマチャンドランなど、いろんな有名な人がでてきて面白い本です。

この本を読むと、いかにスペリーが当時の神経科学において大物であったかわかります。そのスペリーが主張しても、多くの人が耳を貸さなかったのですから、創発理論を確立するということは並大抵のことではない、ということが想像できますね。でも、私は、スペリーが正しかったと思っているし、それを証明したいと思っています。
次回は、おそらくスペリーが初めて創発に関して記した1964年の論文をまとめたいと思います。

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