表現規制のロードマップ(的なやつ)
はじめに
自民党総裁選は石破氏の勝利に終わり、衆議院解散という話も出てるが、一党優位制(政治学でこんな感じの用語があったはず)のこの国においては、石破内閣の発足を意味しているといっていいだろう。
そんなことを気にしていると、Xで気になるポストがあった。曰く「石破はマンガアニメ表現超規制派」という内容だ。
筆者の個人的な政治的優先順位は「広範な表現の自由の保障(行政の不干渉)」の立場を取っているかが最も高いので、本当ならば由々しき事態ということになる。
筆者はVRChatにのめり込む前までは、度々Xで憲法学的観点を中心に、X上の表現規制派に対する反論を行っていた。現在でも規制すべきかどうかという議論にもならない口論は永遠と続いており、規制派は憲法学的に許容できるようなことは言っていないし、擁護派であってもどこまで正当性があるのかあまりわからない主張が多い。
そこで今回は、この表現規制について、思いついたことをつらつらと書き連ねていこうと思う。
ただし、筆者は学士課程の法学部生にすぎず、憲法学は基礎的な範囲で履修した程度であることは断っておきたい。専門ゼミナールは政治学だし。
本当に超専門的でアカデミックなことがしたいなら専門の人に聞くか法学部に入学するかしてほしい。
表現の自由の立ち位置
表現の自由を扱うならば、とうぜん憲法学の知見は必要になる。
まず憲法学的には、一旦あらゆる表現が保障されている、という前提からスタートする。これは表現の自由が自然権的人権であり、人間が生来持つ根幹的な権利であると解されるからだ。
実は、人権は自然権と基本権という二つにわかれ、このうち自然権は確認的に明文化しているのであって、憲法に記載されて権利が実体化されているわけではない。要は「まあみんな当然に持ってるんだけど、これ書かないと為政者がやらかしかねないからね、一応ね」ということ。
憲法学的には「primafacie(プライマフェイシー)」といって、推定的な意味がある。とりあえず保障するというニュアンスが含まれているため、表現の自由といっても規制もあり得るが、初めはあらゆる自由を許す方向に傾いている。
このことから、自然権的人権に対する侵害的行為(この場合の侵害とはニュートラルな意味を持つ)は、その「初めから許す」というスタンスを覆させる必要があると考えるのが相当だ。そのためには当然、相応の合理的で正当性のある強い根拠が示されなければならない。
このこと自体は、薬事法判決の判旨からも読み取れる。
薬事法では経済活動の自由が争われたが、この解釈は他の自由においても応用できるだろう。
権利侵害が正当化されるには
先にも触れたが、薬事法判決のように、当該行為そのものを規制するような「強い禁止」には観念上の懸念だけでなく、合理的な強い根拠や審査基準をクリアしなければならない。
審査基準とは、
1,目的の正当性(目的は公共のためになるものか=個人的で恣意的なものではないか)
2,手段の必要性(その規制手段をとる必要性。その手段でなければならない必要性とも言える(手段の唯一性))
3,手段の適合性(その手段が本当に効果があるのか)
4,手段の均衡性(上記基準を含めて、規制とそれによる侵害の度合いとのバランスが崩れていないか。つまり、過剰な規制に対する忌避)
の四つがしばしば挙げられる。というか筆者はこの四つの視点に基づいて論じなさいと試験で求められた。
ただし、「緩やかな規制手段」は比較的認められやすく、代表例はアダルトコンテンツのR-18規制やCERO規制といったもの。これらはそういった規制対象の内容を作ること、販売することまでは禁止せず、ただしそれが未成年に渡らないように配慮しましょうという形での規制は、現状では法学的に大きな問題があるようには見えない(もちろん適切に規制できているかと問われれば疑問である)。
ちなみにこの「緩やかな規制手段」も含め、これらは次のように薬事法判決で判示されている。
「一般に許可制は……職業の自由に対する強力な制限であるから、その合憲性を肯定しうるためには、原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置で」なければならず、「社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には……自由に対するよりゆるやかな制限……によっては右の目的を十分に達成することができないと認められる」必要があると判示している。また、薬局が近距離で開業することによって生じる「競争の激化―経営の不安定化―法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険」の可能性があることに対して、「単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断」ではないと示している。
(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572貢)
さて、ここからは筆者の考える、表現規制の正当化に必要な手順を例示してみよう。
●被害の実態の立証
法で守られるべき利益のことを法益といい、誰かの権利を侵害することを正当化するならば、まずはなんの法益が害されたのかを明確化しなければならない。誰の何の法益が害されてないのなら、公共の福祉のために他者の権利を侵害する必要などないからだ。それは返ってその人に対する権利侵害になる。
表現の自由においては、例えば性的表現をしたとして、それが具体的に誰の何の法益を犯したのか立証しなければならない。これが現実の女性や児童がモデルになったりした場合、プライバシー権といった権利をもって争うことができる。これについて有名な判例は「宴のあと」事件がある。
しかし完全に創作上の人物である場合、例え女性を侮辱的に扱うものであっても、ではそれが現実の女性に対し具体的にどのように害を与えたのか因果関係を立証しなければ、守るべき法益を把握できない。
規制したい表現を本当に規制するのなら、ここはまず最初のやるべきことになる。
ただ現状、性的搾取という観点で創作物を規制しようというのはグローバルスタンダードとも思えない。それについては以下の記事が非常に参考になるので掲載する。
先程まで長々と被害の実態が必要と訴えたが、こう筆者が考えるのには自衛官護国神社合祀事件という判例の影響が著しく強い。
本件は、殉職した自衛官の葬儀を巡り、自衛隊側(OB会などいくつかの団体があるが、便宜上こう呼ぶ)が当該自衛官を護国神社にて合祀を行ったことについて、当該自衛官の夫であったキリスト教徒の妻が、信教の自由の侵害として訴えた事件である。
下のPDFでは「人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望 むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被 侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済 を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果と なるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰 と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付 与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを 要請しているものというべきである。」
という判例文を引用し、続けて「護国神社によるXの合祀は、まさしく信教 の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得るところであり、 それ自体は何人の法的利益をも侵害するものではない。」
そして事実関係においても「禁止又は制限はもちろんのこと、圧迫 又は干渉が加えられた事実については、被上告人において何ら主張するところがな い。」
以上のことから「してみれば、被上告人の法的利益は何ら侵害されていないと いうべきである。」
と結論付けた。
●四基準のクリア
例えば、表現規制の目的が、真にそれが現実を害するものであり、それによる被害を抑止するためであれば別に問題はない。ここで引っかかることはまあまずないだろう。
判例上よく争点になるのはそれ以外の項目で、中でも適合性と均衡性は争われやすい。
必要性
基本的にはそのまま、そうする必要性はありますか? という問いだ。実は書いていて先に挙げた被害の実態云々はここにも入ってくるのではないかと思ったり。
それはともかく、筆者がこの四基準を知ったのは憲法総論か人権論のどっちかなのだが、憲法入門を履修したときには唯一性について教わった記憶がある。
これは「他者の権利を侵害する場合、それを正当化するにはそれが唯一の合理的で正当な手段であるときだけだ」ということらしい。表現規制の問題に当てはめるなら、例えば子どもの教育にアニメや漫画は悪影響だ、規制しろと言う前に、まずはあなたが現実とは違うんだよとちゃんと徹底して教育なさってからどうです? みたいな話になる。
あなたはこの侵害的手段を取る前に、侵害にならずに済む方法を検討しましたか? 試しましたか? それでもなおこれをしなければならない、看過できないレベルで必要なことなんですか? その合理性と正当性をちゃんと示せますか?適合性
すでにちらっと説明したように、その方法にどれだけの効果があるのかも問題となる。
本当に問題解決のためにその方法が適切なのか?
……数学のようには結論の出せない性質の問題であることはわかっているので、明確な一個の解を出せとは言われないだろうが、「この方法を取ることでこのような理由でこうして問題が解決されていきます」と論理的に説明できなければ話にもならないだろう。それもなんの根拠もないとなれば相手にもされない。
そのため、理想的には科学的根拠を持って論じ、相当以上の確実性を示す必要があるだろう。まあそれも、どの程度侵害しようとしているのかによるが。均衡性
あまり聞き慣れないと思うが、ようは目的などに対して方法が過剰であってはならないということだ。
筆者は憲法学よりは行政法学の方が明るいので、「比例原則」がわかりやすいし説明もしやすい。この原則は元々は警察行政法分野で現れた概念で、警察権力の行使にあたって強権的であってはならないという権力統制の意味合いがある。「すずめを大砲で撃ってはならない」と表現されたりする。
こういうバランスを取ろうという感覚は法学全体の各所にみられる。代表的なのは刑法学の「ウルティマ・ラティオ(究極的最終手段)」だ。刑罰の立ち位置を示す概念だが、要はいたずらに気軽に刑罰を運用してはならない。著しい人権侵害であることは確かなのだから、慎重に運用すべきだという戒めでもある。
もちろん憲法も例外ではなく、過剰な侵害は許されてはならない。だから公共の福祉の観点でバランスの良い方法かどうか検証する必要がある。
その他、筆者の考え
筆者が大学で学んだ範囲で出せる知識や考え方はここまでに示してきたが、個人的に考えていく中で不可抗力性、あるいは強制力や拘束力といったものも重要なのではないかと考えた。抽象的な思考ではあるので、これに賛同するかどうかは読者諸君に任せる。
表現が批判に遭うというのは、往々にしてそれによって犯罪行動を起こさせたと認識されるからであると推測する。また、正当に禁止されるというのもそこにそのコンテンツが強制力があり、そのため受取側が不可抗力的にその影響を受けてしまうからだと考えている。
つまり、そのコンテンツが与える影響について、受け取り側が強制されてその犯罪行動を起こしてしまうような不可抗力性がないにもかかわらず、そのものが主格となって責任を追及されるというのはおかしな話ではないかと感じている。
だってそうだろう。強制力や不可抗力性がないというのは結局のところ受け取り側がどう解釈するかという個人の思考力や価値観に直結する極めて個人的な問題にしかならず、つまりそれは創作側が本来持つべき責任の範疇を逸脱していると言わざるを得ないのである。
それこそ、筆者は高校生時代より政教分離になぞらえて「創現分離」という造語を積極的に使っているが、こうした教育が浸透すること、そもそもいたずらに人の不快となることを場もわきまえずにしないこと、といった当たり前の道徳観がこれまでの人生の中で涵養されていれば創作物を真実として真似をするなどという馬鹿げた事態が発生するはずがないのである。
まあけっきょくのところ、これまで示した法学の考え方と大きく異なりはしないが。ただそこに強制力とか不可抗力を持ち出しているだけで。
とにもかくにも、表現の自由の規制を巡っては、法学の観点からはこんなところだろう。
この記事は規制派に対する「お前らはこんなこともできていない」という批判であると同時に、主張にあたって説得力を持たせるにはどうしたらいいのかという手引書にもなる。
反対に擁護派に対しては、こんなことも主張できずに規制派を批判しているのかという呆れを示すものであると同時に、これを知ったからには今後君らはこの記事が評価項目のチェックシートのように用いて規制派の主張に相対することができる。
ここまで長々と書いてきたが、全ての文章を読んでくれてありがとう。
参考になってくれれば幸いだ。
追記
裁判所の違憲審査過程において「二重の基準論」というのがある。簡単に言えば、精神的自由(表現の自由、信教の自由など)は経済的自由と比べて、一度侵害されたときに民主的な過程による回復が困難であるという理解(精神的自由の脆弱性)から、経済的自由に対する審査よりもより厳しい姿勢をとるべきだという審査基準がある。
プライマフェイシーのあたりの説明と重複するが、どちらにしても表現の自由に挑むにあたって、相当に強い根拠が必要とされることは明白だろう。
また、「被害の実態の立証」でのさらにわかりやすい説明として以下を記述する。
誰かの権利を規制するのは、その権利行使によって他者の権利が許容できないほどに害されることに対する防衛的な手段であるため、その害されたという実態の証明ができなければいったい誰のなんの権利を守るべきかわからなくなるばかりか、意味もなくその誰かの権利を悪戯に侵害するおそれがある。だからこそ緩やかな手段の範疇を超えて規制する場合、その表現が実際的に害悪なのだという観念上の懸念を超えた強い根拠(できれば直接的な因果関係の証明が望ましい)の提示が必須なのである。