
仏典などに見えるインド人商人が、ベトナムなど東南アジア諸国で買い付けていたもの:古代の香料サプライチェーン①
ジャータカ(本生経)が反映する貿易や航海はいつの時代の出来事か
さまざまなジャータカ、「本生経」(ほんじょうきょう:Jatakamala, 紀元前3~1世紀ごろ)第十四話「船長スパーラガの航海」や、「大乗荘厳宝王経」(Karandavyuha-Sutra、西暦4~5世紀ごろ)第二章「商人シンハララージャの航海」(漢文第三章:往獅子国の事)などの仏典に見られる、インド人商人の商品について考える。『インド経済史・古代から現代まで』(India+in+the+World+Economy: From Antiquity to the Present, Tirthankal Roy, 2012)において、ロイ氏は、古代貿易において地理的な可能性と制約は明確であり、古代インド人の交易は南アジア・東南アジアの特定の地域や住民共同体の地理的位置による経費の節減性、危機管理の容易性を十分検討して行われたとする。仏典に見えるインド人商人の航海が、史実の一端を示すとすれば、それが仏陀の前世である以上、仏誕以前(紀元前624年以前)のこととなる。しかし、南伝仏教の伝承では、十事非法事件をきっかけに起こる上座部と大衆部の根本分裂(紀元前400年ごろ)の理由に、大衆部が一部のジャータカを非仏説として否定したことへの、上座部から大衆部への批判(一部でもジャータカを否定する大衆部は不敬である)が挙げられている。このことは、ジャータカの中に仏陀存命時の説法ではなく後代の創作が混じっているという「ジャータカ非仏説」論に立つ人々が、仏滅以後(紀元前544年以後)百五十年ほどの間に、早くも教団内に現れていたことを指す。ジャータカの航海は紀元前6世紀の仏陀の説法によるのではなく、後代の航海を仏陀に仮託して物語化したものだった。だとすれば、ジャータカに描写される古代貿易は、根本分裂の時代、紀元前400年から、西暦紀元後300年(グプタ朝≒「大乗荘厳宝王経」編纂時期)までの事情を反映していると考えてよさそうである。
戦争難民と貴種流離
この時代の南アジア~東南アジアの重要事項は、アーリヤ人とドラヴィダ人の境界上にあったカリンガ地方(ガンジス水系の西端)を中心にベンガル湾~インド洋貿易が栄え、カリンガの南隣のパッラヴァや内陸のカタンバを始めとする南インドや、はるか先の東南アジアで、非アーリヤ人王権が急速に発展し、それらがサンスクリット(梵語)を政治言語とした住民共同体の領域を形成していったことである。欧州諸国には、伝承上のトロイア戦争で敗れ四散したトロイア王族の遺民(由緒のある家柄の戦争難民)を「貴種流離譚」という形で自らの建国神話の中核に据え、トロイア王族を自分たちの祖先と見なす伝承がある(イギリス=ブリティッシュ諸島はブルトゥスが、フランスはヘクトールの子フランクスが、イタリアの首都ローマはアイネイアースの十六代目ロムルスが建てたとされる)。映画「トロイ」(Troy, Wolfgang Petersen, 2004)は、多くの欧米人観客から、キリスト教以前の異教時代の神話というより、自分たちの直系祖先の物語として受け止められた。ベトナム中部、ミソン遺跡にあるチャンパー碑文C96、「プラカーシャダルマ王のシャカ紀元579年(西暦658年)の柱刻碑文」にも、伝承上のマハーバーラタ戦争で敗れ、不死の呪いを受けたクル王族(カウラヴァ)遺民アシュヴァッターマンを王家の祖先とする記述がある。


インドネシア人とくにジャワ人・バリ人の間では、マハーバーラタ叙事詩中の最高の英雄は、パーンドゥ(パーンダヴァ)王族の長男でありながら私生児として卑しめられていたのをクル王族(カウラヴァ)に救われ、友人としてクルの卑怯な陰謀を諌め続け、正しく戦うようさとし、最後はクルの武将としてパーンドゥに対し正々堂々と戦いを挑んで討ち死にした、童話「泣いた赤鬼」の青鬼のような友情と誠実と武勇の男カルノである(初代大統領スカルノの名もカルノからとられた)。
彼らが実際に戦争難民の子孫だとすると、伝承上のマハーバーラタ戦争よりも、アショーカ王が仏教に帰依するきっかけになった、十万人が死んだマウリヤ対カリンガ戦争(紀元前265年)におけるカリンガ王家遺民のほうが、サンスクリット文化の非アーリヤ人への伝播者として現実味がある。カリンガ難民によるサンスクリット伝播に関する記録は存在しないものの、非アーリヤ系インド人を指す固有名詞は、チャム、クメール、マレー語みなカリング(Kaling < Kalinga)である。

カウンディニヤとソーマの結婚はカンボジアの国祖伝承が王族間の結婚を通じてチャンパーに取り入れられたと考えられる。チャンパーの後裔チャム人はいまもカンボジアのクメール人をクル(Kur)と呼ぶ。

*ソーマは酩酊・幻覚剤の意味があり、柳葉も幻覚・鎮痛剤作用がある(柳はアスピリンの原料)。

「サンスクリット・コスモポリス」:グプタ朝~チョーラ朝(300-1300)まで、南アジアと東南アジアのインド文明は同時発生、同時進行
南インド~東南アジア各地の非アーリヤ人のサンスクリット話者領域と、北インド〜中央アジアのアーリヤ人領域を合わせて、「サンスクリット・コスモポリス」(Sanskrit Cosmopolis)と呼ぶ立場がある。「サンスクリット・コスモポリス」の世界観においては、「北インドからの、周辺地域へのヒンズー教・仏教の伝播」のような、中央と周辺の主従関係は否定される。インド中央のグプタ朝に出現した思想、文化、技術は、ほぼ同時にシュリークシェートラ(ビルマ)、ドヴァ―ラヴァティー(タイ)、カーンボージャ(カンボジア)、チャンパー(中部ベトナム)、ランカスカ(マレー)、クタイ(ボルネオ)、サムードラ(スマトラ)、ヤヴァドヴィーパ(ジャワ)に出現したと考えられる。たとえば、下の「ヒンズー教・仏教伝播地図」は「サンスクリット・コスモポリス内交易地図」のように読み替えられる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Hinduism_in_Southeast_Asia#/media/File:Hinduism_Expansion_in_Asia.svg
インド人商人が東南アジアで買い付けようとしたもの:香料(スパイス)とくに沈香(ガハル)
古代貿易の主役は何だったのか、どうして必要だったのか、そのサプライチェーンはどのように構築されたのか。「香りの風景:沈香と嗅覚を通しての、自然、消費、商品化の理解」(Lê Bích Tuyên/黎碧宣, 2018)は、この問いに関する興味深い回答の要約である。以下、訳出する。
https://escholarship.org/content/qt0df4f57t/qt0df4f57t_noSplash_c55792f4c9b01fe32a5a677d1529cd40.pdf
中東の香りの風景
中東における沈香貿易はイスラーム以前から行われており、二千年以上続いている。ただし、沈香の使用と重要性の増加はイスラームの台頭と一致している(Antonopoulou et al., 2010; Zohar & Lev, 2013)。東アジアと東南アジアを原産とする商品を中東へもたらす古代貿易の多くはインド人(南アジア人)の商人によって行われたと推測されている。東南アジアの多くの地域で沈香を意味するガハル(gaharu)という名称はサンスクリット(梵語)に由来し、この推測を裏付ける(Wyn & Anak, 2010)(訳者注:Malay: gaharu < Sanskrit: agaru)。ゴア、ムンバイ、シンガポールは、中東に輸出される沈香の歴史的な主要港だった(Compton & Ishihara, 2004; Wyn & Anak, 2010)。古代~中世アラブ人の中には、インド人の仲買人を飛び越え、東アジアや東南アジアとの直接貿易に従事していた人々もいた。7 世紀から 11 世紀にかけてのアラビア語やペルシャ語の記録によれば、アラブ人・ペルシャ人商人はマラッカ海峡を越え、中国(唐、宋)を訪れ、沈香を含むさまざまな種類の高級品を購入し、マラッカ海峡の貿易は早い段階でスマトラ~ジャワ方面のムスリムが支配していた(López-Sampson & Page, 2018)。スマトラ・ジャワ北岸の都市のいくつかは、今日でも沈香産業にとって、輸入業者/輸出業者として、また最終消費者への販売拠点として重要な場所となっている(Wyn & Anak, 2010)。これらの貿易ネットワークは非常に複雑で、商人同士の長年にわたる、多くの場合は相続継承された、非成文・非公式的な信頼関係に大きく依存しており、それはいまなお存在している(Compton & Ishihara, 2004)。中東の消費者は、あらゆるグレードの、さまざまな沈香製品を好む。ブレンドされた香、丸ごとのかけら、チップ、パウダー、いろいろな香りのプロファイルのオイル、およびこれらを使用したさまざまな美容製品と、ブレンドされた液体香水(オイルベースの「東洋」スタイルとアルコールベースの「西洋」スタイルの両方)がある。この地域全体で、沈香は長い間、日常生活に重要かつ不可欠な部分だった。「沈香は、伝統的な芳香剤や香水として、さまざまな形で使用されている。シェイク(長老たち)が客人を尊重するために燃やす高品質の木片から、特別な行事の前や祈りの準備のために個人の衣服に香りをつけるもの、一般的な家庭用の香りまで、さまざまである」(Antonopoulou et al., 2010)。アラビア半島は、おそらく他のどの地域よりも、香りとの強い関係がある。ここの香水の製造と貿易の歴史は深く、芳香文化は複雑で、住民すべての階級に広がっている。香水作りの長い歴史は、アラブ文化において香水がより重要視されるようになったイスラームの勃興と密接に関係する。イスラームでは当初から心地よい香りが高く評価されており、その価値はコーランによって確立されている。数多くの詩節(注釈を含む)が、かぐわしい空気と緑豊かな楽園を描写している。芳香のある環境と霊的なエネルギーを区別することは、こうした楽園観ではほとんど不可能である。心地よい香りを神の特質の表現であるとムスリムたちが理解したことが、その後の数世紀にわたる香水作りの追求を支えた(Jung, 2011: p. 10)。沈香はイスラーム世界において高貴な香りとしての地位を獲得し、700年代以降、中東の医薬文献だけでなく、数多くの香水に関する文献において、具体的に言及されている(LópezSampson & Page, 2018)。各史料を網羅すると、中東の沈香は現在のインドからインドネシアに至る、さまざまな原産地から輸入されていた(Zohar & Lev, 2013)。イスラームの台頭は、沈香が固形の香だけでなく、液体の香水にも使われるようになった時期と一致する。沈香の香水は高く評価され、切望されていたため、インドのさまざまな王侯たちから、ペルシャやアラブの王侯たちへの贈り物として贈られることが多かった(Zohar & Lev, 2013)。今日においても、沈香はレクリエーションや社交の手段であるのと同じくらい、宗教的な瞑想や祈りの道具として、人々から大切にされている。基本的に存在するすべての形の沈香を消費するアラブ世界とは異なり、東アジアは歴史的に沈香の固形物(ブレンドされた香と純粋な木片)を好んできた。アラブ世界と同様に、香料や沈香の消費量の増加は宗教と結びついていた。中国における香の製造は、インド亜大陸から仏教が伝来した西暦 1 世紀にまで遡り、そこから日本に広まった(Barden et al,. 2000)。沈香など、仏教の儀式に好まれる香の原料のほとんどは、日本や近隣地域に自生するものではなかったため、遠方から輸入しなければならなかった。輸入原料は高価だったため、香の鑑賞はやがて富裕層と結びつくようになった(Iwasaki, 2004; Moeran, 2009)。日本との貿易は、ほぼ例外なく中国人仲買人を通じて行われ、「今日でも、多くの日本の商社は沈香を調達する際に中国語で取引を行っている」(Compton & Ishihara, 2004: p.9)。歴史的に、東アジアに輸出される製品は、扶南(現在のカンボジア東部~ベトナム南部)などの集散地を経由して輸送された。

サンスクリット・コスモポリス崩壊後、東アジア向け香料交易者はインド人から中国人に移った。麟阮沈香、徳順沈香、福齢沈香、青恒沈香などの名店は、いずれも漢字屋号をもつ華人系(中国系)商店と思われる。
中国の香りの風景
中国南部において、沈香樹脂の形成を誘発する試みの証拠は、西暦300 年代にまで遡り、亜熱帯アジアの植物に関する最も古い文献の 1 つに、木を傷つけることについての言及がある(López-Sampson & Page, 2018)。中国に輸入された沈香のほとんどは、交趾・大越(ベトナム北部)や林邑・チャンパー(ベトナム中部)から、朝貢品として中国に送られ、消費者に直接渡っていった。沈香は寺院で日常的に使用されるほか、書斎の壁を飾ったり香り付けしたりするために、また、特に皇帝たちにより、香り時計としても使用された。これらのことは、沈香が栄誉と富のしるしとして崇高な役割を果たしていたことを示す(López-Sampson & Page, 2018)。ベトナムや東南アジアの他の地域から中国への沈香の輸出は、いくつかの要因により中国での需要が高まった西暦 200 年代に大幅に増加した。中国北部を中心とする統一帝国(晋)の崩壊後、裕福な人々が南方へ避難し(南朝)、中国南部での経済成長とそれに伴う贅沢品や異国情緒ある商品の需要の増加につながった(Hall, 1993)。この間、国際海上貿易の増加に伴い陸上貿易は一時的に衰退し、東南アジア自体も大きな経済成長を経験した(Hall, 1993)。それまで東南アジアの港は、主に他の地域や東アジアから運ばれてくる商品の中継地点として機能していたが、東南アジアの商人(訳者注:サンスクリット・コスモポリスにおけるインド流文明人である商人たち)は国内産の商品を積極的に宣伝し、売り込むようになった。その中には沈香も含まれていた(Jung, 2013)。この時期に沈香やその他の東南アジアの芳香剤が、西洋や中東産の芳香剤(乳香など)に取って代わるようになったと推測されている(Jung, 2013)。後期古代のローマ帝国とペルシャ(イラン)での政治的混乱により、西方から東方への商品の輸送が制限された一方で、東南アジアの商品はより容易に入手できるようになった。仏教が東アジアと東南アジアでよりしっかりと定着するにつれて、宗教的実践における香の使用は、精神的な浄化の一形態として、また祈りと瞑想を促進するものとして強調されるようになった。「他の旅行者と比較して、巡礼する仏教徒は、何世紀にもわたり、芳香剤の推進を強化してきた」(Jung, 2013: p.107)。沈香は唐(紀元600年代~900年代)の間にさらに人気を博し、公式の医薬書に6つの主要成分の1つとして記載され、歴史的にも有名な、大きな沈香の彫刻が、宗教的な空間に加えられたりするようになった(López-Sampson&Page, 2018)。中国人は、海南島や東南アジア大陸部(大越、チャンパー、カンボジア、シャム)産の沈香は、こんにちのインドネシアなど島嶼部産の沈香よりも香りが優れていると考え、インドネシア産の沈香は主に医療目的で使用していた(López-Sampson & Page, 2018)。西暦500年代後半から1200年代にかけて、中国と中東世界の両方で平和と統一の時代が定期的に訪れ、「造船と航海の進歩と相まって、中国、インドと、中東のアラブ世界中心地の間で海洋貿易が開かれ」、東南アジアからの沈香の貿易がさらに促進された(López-Sampson & Page, 2018: p.116)。1700 年代に、フランス人の植物学者・宣教師ピエール・ポワヴル(1719-1786)は、中国で好まれていた複数の種類のベトナム産の沈香に加えて、樹脂を含まない数種類の Aquilaria(ジンチョウゲ)属の木についても記録している(López-Sampson & Page, 2018)。
日本の香りの風景
日本では、沈香の使用に関する最初の言及は『日本書紀』(西暦720 年完成)に遡り、それによれば、西暦 595 年に淡路島の海岸に大きな沈香が流れ着いたとされる(Iwasaki, 2004)。地元の人々が沈香を燃やして心地よい香りに気付き、残りを推古天皇に献上した(Iwasaki, 2004:訳者注、これは志度寺縁起文に見える、継体朝に琵琶湖岸を発し、淀川、淡路島を経て推古朝に讃岐に流れ着いたという霊木の記録と同じものか)。

700 年代、唐は奈良の聖武天皇に、現在「蘭奢待」と呼ばれている巨大な沈香を贈った。興味深いことに、「天皇は、その時代に、すでに香料樹脂を含まない木を使用した偽造品が横行していることに気付いており、「沈香を購入するのは鑑定家でなければならない」と示唆した(López-Sampson & Page, 2018, p. 121)。「蘭奢待」は、長さ 1 メートル以上、重さ 11 キログラムを超える巨大な沈香だった(Bedini, 1994)。

鑑定家たちによる香の鑑賞は、平安時代(794-1185)に香道の原型を形成した(Masanori, 2016)。著名な戦国大名、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らは香道と茶道を保護し、織田信長は朝廷に香官の地位を設けた(訳者注:御家流(おいえりゅう)香道の家元・三條西実枝(さんじょうにし・さねき)が信長の推挙で大納言に任じられたことを指すか; Masanori, 2016)。1600年代には、ゴアのポルトガル人から日本の天皇に沈香が贈られたことがフランス人商人によって記録されている。これは、当時の欧州人が日本の上流階層における沈香の地位をよく知っていた証拠である(López-Sampson & Page, 2018)。沈香などを専門に扱うふたつの香料会社、梅栄堂(ばいえいどう)と松栄堂(しょうえいどう)はともに1700年代に設立され、現在に至る。

歴史的にも現在でも、香道で特に興味深いのは、伝説的な「伽羅」(越語:琦楠香、仏語:calambac)等級の沈香の扱いである、1600~1700年代の明清時代中国人商人及びフランス人観察者による記録でも、沈香が日本で非常に高く評価されていたことが記されている。中国人貿易業者は、日本に送る貨物船に沈香を積み込むために、ベトナムで一年以上待つことがあった。日本では他の場所より何倍も高値で売れたとする(Li, 1998, p. 79)。ピエール・ポワヴルは、日本人はあらゆる種類の沈香を愛したが、伽羅等級の沈香への愛は格別だった、それは樹脂質が強く、まるで蝋のように表面に爪が沈むほどだったと述べる。伽羅は「大変高価」であり、現在のベトナム南中部カインホア省(慶和省)産のものが最高級だった(Li, 1998, pp. 79–80)(翻訳ココマデ)。以下②に続く。

