バリアの裏山、ヌイクアンとその周辺:十九~二十世紀のドンナイ川左岸丘陵の開拓史③
今週末(2025.1.10~12)は、二十年前の「バリア・ブンタウ地誌」(Thạch Phương, Nguyễn Trọng Minh et al., 2005)の中から、ドンナイ川左岸丘陵に位置し、OCAの自社契約カカオ栽培農園があるチャウドゥク県の沿革の条(121-130頁)を、少しずつ訳出している。フランスによる大南阮朝の保護国化・フランス領インドシナ連邦(大法東洋連邦、仏印)成立前後のベトナムの度量衡(面積単位)については、すでにグエン・ディン・ダウ/阮廷頭氏や関本紀子女史らによる精緻な研究がある。本訳稿ではベトナム「政令2012年第86号」付録六「法定計量単位とは異なる度量衡の換算」にもとづき、1 mẫu = 499.52(一畝≒半ヘクタール)として換算する。
十九世紀チャウドゥクの農地面積
嗣徳二年地簿(1849)の統計によれば、隆昌、隆基、安宅3総(いまチャウドゥク県)に属する25集落において開墾されていた土地面積は実耕366.4畝(約200ヘクタール)であり、平均換算で1集落あたり14.6畝(約7ヘクタール)だった。この開墾面積の規模から、十九世紀なかばのチャウドゥクの主要住民はチャウロー(フランス資料におけるモイ Mọi/Montagnardes)であり、越人の定住比率は極めて低かったと結論づけられる(訳者注:越人は、「ヌイクアン」あたりに令県(県の役人)が駐在していただけだったと考えられる)。
フランス資本によるゴム園開発、フランス植民地当局による道路、鉄道開発と、ゴム園労働者・自由移民の波
二十世紀初頭、1900年代の末、こんにちのチャウドゥク県に属する土地(隆昌、隆基、安宅3総)おける越人の定住に、突然変化がおとずれた。それは、ベトナム東南部の赤土及び灰色土壌地域における、フランス資本による土地取得と天然ゴム園(đồn điền caoutchouc-ゴム屯田)の開発である。バリア地盤における最初のゴム園は、1908年、こんにちのチャウドゥク県ビンバ社地分における、ガリア社(Gallia:訳者注:スザンナ・アンロックグループの親会社か)によるものから始まった。フランス資本のバリア・プランテーション(農園)は、1910年の35ヘクタールから、1929年には8,000ヘクタールまで拡大した。この面積には越人や華人資本のものは含まれない。各農園におけるゴム栽培労働力を確保するため、(当時人口過密だった)北圻の紅河デルタ各省及び中圻の各省から、生産請負契約形式(contrat)により、労働者が徴募された(訳者注:当時、北圻~中圻(いまの北部~南部)のデルタや平地の人口密度は430人/km2だった。2024年の静岡県の人口密度が415人/km2である)。このほかに、従来の耕作地を(国有地払い下げや売買などで)失い、より深い森へ移動していたチャウロー、マー、スティエンなどの少数民族を含む、若干の地元住民も雇用された。フランス時代(仏印期)のゴム園労働者の困窮については、すでに数千頁に及ぶ詳細な描写がなされているので、本稿では問題として扱わない。
(訳者注:参考に、一つだけ、ゴム園(ゴム屯田)労働者の困窮を歌った無名作者の有名な歌謡を挙げておく:
塵間地獄是茲
Trần gian địa ngục là đây
この世の地獄がここにある
屯田土赤場西殺人
Đồn Điền đất đỏ nơi Tây giết người
赤土の屯田は西洋鬼が人を殺す場ぞ)
フランス植民地当局による搾取政策は、ベトナム東南部に、なかんづくバリアの地盤に、工人階級(労働者階級)という新たな勢力を出現させた。彼らは、資本主義的生産様式によって組織された、わが国最初の集約農業従事型の労働者勢力だった。土地開墾、産業植物農園の開発と並行して、フランス植民地当局は多くの交通路を開発した。サイゴン・ファンティエト国道(西貢-潘鉄国道)及び穿越鉄道(統一鉄道)が開通した際、連省道路2号(いま国道56号)が開かれて、(南側のバリア・ブンタウ省の)バリアと、(北側のドンナイ省の)ロンカインが接続されると、各交通路の沿線において、水田や農園を開発し、あるいは商業、手工業、サービス業に従事する各地からの自由移民が日増しに増加した。
インドシナ戦争・ベトナム戦争(抗仏戦争・抗米戦争)と、避難民の波
抗仏戦争時代(1946-1954)、ゴム産業の活動は停滞し、各農園はほとんど面積を広げることなく、すでに作付け済みのゴムノキの開拓と世話などの作業を維持するだけだった。そのため、ゴム園労働者の数もほとんど増えず、または微増にとどまった。ジュネーヴ協定調印(1954.7.20)以後、親仏・親米のベトナム共和国(旧南越)ゴー・ディン・ジエム/呉廷琰政権は、(北方から南方へ避難した)天主教徒の同胞約二万人をバリアとブンタウに定住させた。彼らの多くは、(抗米戦争中の)重要な戦略道路や、各都市の防衛施設に沿って配置された。いまのチャウドゥクにあたる地域ではビンザ/平野定住区が設けられた。それはのちにビンザ社を形成した。1961年及び1971年の国道9号及び南ラオスにおけるベトナム共和国軍(旧南越政府軍)の敗北後、親米グエン・ヴァン・ティエウ/阮文紹政権は、(国道9号及び南ラオスと隣接する)クアンチ/広治省、クアンナム/広南省、クアンガイ/広義省、ビンディン/平定省からの避難民を定住させるスオイゲー/𤂬艾定住区を設置した、それはのちにスオイゲー社を形成した。南方完全解放(1975.4.30)以後、様々な地域からの移住者たちがチャウドゥクに殺到した。そのうちの少なくない人々が、1954年に移住した人々(北方からの天主教徒避難民)の家族や親戚たちだった。そのため、県内の人口は急速に増大した。2001年の時点で、チャウドゥク県地域の人口は130,000人になった。
インドシナ戦争・ベトナム戦争におけるチャウドゥク県人民の寄与
チャウドゥク県人民は、二つの抵抗戦争、抗仏・抗米戦争中、武装勢力の組織、スアンフオクコー/春福基 根拠地やフーミー・ハクジク/富美-黒易 根拠地の建設、ビンザ/平野の戦いや連省道路2号線の戦いにおける勝利、ホーチミン作戦における蜂起・総進攻、バリア・ブンタウ省完全解放などにおいて、人力と財力の両面で寄与した。三十年間(1946-1975)にわたる国土解放戦争における戦功の総括から、チャウドゥク県では、6つの単位が、国から「武装勢力英雄称号」を授与された:
1. チャウドゥク/週徳県武装勢力
2. チャウドゥク県人民及びチャウドゥク県安寧班
3. ガイザオ/義交市鎮人民及び武装勢力
4. スアンソン/春山社人民及び武装勢力
5. ビンバ/平巴ゴム園労働者及び農園自衛勢力
6. チャウドゥク県第34大隊及び地方部隊である。
国土解放事業に殉じた烈士は602名である(1930-1989)。戦時中には、このほかにも、数千もの革命武装単位に属する烈士たちがチャウドゥクで戦死したが、かれらはチャウドゥク県労働社会傷兵室が管理するチャウドゥクの烈士ではないことについて、了解を願う。
戦争の傷跡を癒し、生産を回復する建設の時代になってから、チャウドゥク県では、2つの単位が、国から、ゴム産業分野における「労働英雄」として宣揚された:
1. サバン農場
2. クビ・ゴム農場である。以上。