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🟫イタリア史9(ローマ:地中海制覇への戦い)(BC201年〜)

🟫イタリア史9(ローマ:地中海制覇への戦い)(BC201年〜)
🟩BC201年:
【第二次マケドニア戦争勃発】
ザマの戦いに勝利したローマは、
地中海西側の覇者となった。
勝利に沸くローマに、
アテネを始めとしたギリシャ人達の
使節団が訪れた。
この頃の地中海東側は、
アレクサンドロス帝国が分裂し、
・アンティゴノス朝マケドニア
・セレウコス朝シリア
・プトレマイオス朝エジプト
を筆頭に多くの小国に分かれていた。
ギリシャ人達は祝辞を述べると共に、
ローマに救援を求めてきた。
マケドニア王国のフィリッポス5世が
ギリシャ諸都市に攻撃を仕掛けてきたのである。
ローマとマケドニア王国は、
BC214〜BC205年に
第二次ポエニ戦争と並行して、
第一次マケドニア戦争が起こっていた。
マケドニア王国は、
ポエニ戦争においてハンニバルに味方した国であり、
その合流をギリシャ諸都市が食い止めていたからこそ、
ローマはカルタゴ戦に集中できたと言える。
そもそも今までも、
友好都市を見捨てないローマの態度が、
鉄の結束力を保ってきたし、
なによりローマは
ギリシャの文化や文明を深く敬愛していた。
ローマ建国のロムルスも、
元を辿ればギリシャ人であるし、
その発展の過程においては、
アテネに幾度となく使節を派遣しているくらいである。
ローマ貴族にはギリシャ語を学ぶ者も多く、
最重要の教養とされていた。
今回は、
セレウコス朝シリアのアンティオコス3世と共に
まだ少年王であるプトレマイオス朝の領土を分割しようと
秘密協定を結んでいたが、
マケドニアは、
この協定を破り
プトレマイオス朝の領内の小アジアに侵攻した。
ローマは、
前年のザマの戦いでハンニバルを破り
マケドニアをセレウコス朝シリアと共に
挟撃できるようになっていたため、
同盟を理由に、これに介入し、
またもや戦争が始まるのである。

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