【エッセイ&お笑い】「バナナの皮を踏んで滑るのと、踏まないでスルーするのは、どちらが面白いのか」の話

以前にAマッソの加納さんがラジオで話していた話で、非常に興味深く、お笑いの奥深さと難しさをわかりやすく学んだことを覚えている。

ラジオの内容もうろ覚えなので、以下の話は自分なりの解釈も多分に入っている。

まず、バナナの皮が道端に落ちていたとする。
これを踏まずにただ歩いて、過ぎる。
この場合、何も起きていない。ただ歩いただけ。面白くない。

このバナナの皮を踏んでしまって、滑って転んだ場合はどうか。
よくある「面白い」光景である。
おそらく多くの人はこの認識を持っていて、テレビ的な1個目のお笑いだと思う。

しかし、「バナナの皮を踏んで、滑って転ぶ」という、面白いとされる流れが定番化して、みんながそうするようになると、
次に「バナナの皮を踏まない」ことに意味が生まれる。

「バナナの皮を踏んで、滑って転ぶ」という前提があると、
「あえてバナナの皮を踏まない」ということが面白く感じるようになるのだ。

でも、みんなが「踏まない」お笑いをしても面白いわけではなくて、
「踏んで滑って転ぶ」という定番を避ける人が多くなると、
逆に定番を真正面からやることが面白くなったりもする。

そして、定番とその逆が前提にあると、「面白さ」の種類は無数に広がる。

バナナの皮を、
踏んだけど滑らないこと、
自転車に乗って滑って転ぶこと、
スルーして何もないところで滑って転ぶこと、
拾うこと、
蹴ったり投げたりすること、
ただじっと見ること、
食べること、
追加でバナナの皮を道端に置くこと、
バナナの皮の隣でサッカーをし始めること、
ペットとして飼い始めること、etc。

定番をすることだって、「真正面からしっかりやる」場合と「あえてやる」場合では印象も変わる。

その行為をする「人物」にも面白さは左右される。
出川哲朗さんとキングコング・西野さんでは、同じように滑って転んでも、視聴者の反応は違うだろう。

時、場合、キャラクター、共通認識の有無や程度などによって、
「面白さ」が無数に生まれる。

「答え」はあったり、なかったりする。

難しい。

だから、お笑いはおもしろい。








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