【映画】「『シビル・ウォー』と『HAPPYEND』の目線の違い」の話
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』と『HAPPYEND』は、それぞれアメリカと日本の「少し先の、あるかもしれない現実」を描いた作品だ。
フィクションだが、そうとは言い切れない緊張感があり、どちらも非常に面白かった。
いずれの作品も観客への問題提起が多分に含まれていたが、その「目線」はまったく違う。
『シビル・ウォー』は非常に客観的だった。
主人公たちはジャーナリストという中立なポジションで、まさしく「記録」に徹していた。
特定の思想があるわけではなく、今こういう現実があって、こういうことが起きていると、「伝える」役割。
誰が敵かもわからず殺す人間、出身地で差別する人間、無関心で平和を装う人間などなど、「こういう人たちがいる」ことを描く。
メタ的な目線で客観的に見せて、「じゃああなたたちはどう考える?」と問うやり方だ。
一方、『HAPPYEND』は非常に主観的である。
主人公2人は、まだ何者でもない高校生。
「何もやらなければ、何も変わらない。これから自分が生きる社会を変えるために、声をあげなければならない。」
「何かやったって、何も変わらない。何をしても無意味だ。だったら、今この瞬間楽しいことをしたい。」
という真逆の考え方を持っている。
どちらにも共感できるが、この考え方の違いを若者目線で見せて、「じゃああなたたちはどう考える?」と問うている。
いずれも自分たちへの訴えかけを強く感じ、私も考えさせられたひとりであることは言うまでもない。