【エッセイ】「エンタメは大きな“内輪ノリ”」の話
内輪ノリ。
クラスのお決まりの流れ。
学校でしか通用しない先生のモノマネ。
めちゃくちゃウケるけど、ある一定の範囲でしか伝わらなくて、その外側にいる人間にとってはサムいネタ。
でもこれが、「エンタメ」の最小単位だと最近思うようになった。
私がハマっていたドラマ。
きっと父にも面白いと思ってもらえると考え、第5話あたりを一緒に見たとき、父はどこか冷めたような目で見ていた。
私にとっては当たり前のようなドラマの雰囲気や話の流れに、父はついていけなかったのだと思う。
他のエンタメだってそうだ。
私は、多くの人が好きなアイドルやK-POP にはあまり興味がない。
私はいまいちその良さが分からず、どこか遠くからそれを見ている。
そのエンタメにとって、私は「外側」の人間なのだ。
深夜ラジオなんてその最たるもの。
わかる人にとってはお腹が捩れるくらい面白いことでも、初めて聴いた人は「なんだこれ。意味わからん。」となる。
内輪ノリでの「グループ」「教室」「学校」という範囲は、エンタメでは「劇場」や「視聴者」となる。
どんなエンタメでも、「内側」は熱狂し、「外側」は冷淡だ。
その、ある種の点々とした「ムラ」みたいなものできっと分かれてて、世界が構成されてるんだと思う。
その「ムラ」の住人が大きいほど、そのエンタメの規模は大きくなる。
サッカーだって野球だって、その住人が多すぎるだけで、「外側」から見れば、クラスの男子の知らないノリと、根本はあまり変わらないんじゃないかと思う。
「ムラ」だったエンタメは、テレビやインターネットを介して交流するようになった。それが昭和や平成。
それが、今は、その「ムラ」の数が多くなりすぎて、また点々とした別個な世界になってきているように感じる。
あの頃、共通認識だった、野球、プロレス、映画、ドラマ、漫画。
今じゃ、共通認識となるエンタメなんてほとんど存在しない。
オリンピックですら、ひとつの「ムラ」にすぎないのだから。
大谷翔平さんですら、中年の間では共通認識のように見えるが、実際のところはどうなのかと感じてしまう。
増えすぎた「ムラ」だが、きっとこれからも増える。
全体のパイが少なくなってるのに、ひとつひとつの住人が減ったら、そのエンタメはやっていけるのか。
じっくりと減っていくしか道はないのか。
人間だって、「個人」として見られ、画一であることを強制されない世の中になってきているのだから、エンタメだって多様化して、自由にその小さなパイで本当の「内輪ノリ」のように楽しむのも、流れとしては自然かもしれない。
自分が面白いと思うものを、隣の人も同じように面白いと思って欲しいなんて、烏滸がましいこともしれない。
それでもやはり、面白いと思うものは、ひとりでも多くの人に見て欲しいな。
なんて。
そう願わずにはいられない。
映画も同じように、「一定数の映画好きだけが見るもの」みたいになっていて、それがちょっとだけ悲しかったりするから。