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イスタンブル純情 突然の移住

今、書道をやっているんだから、それを見て「抽象的でカッコいい!」と言ってくれそうな人がいるのはどこだろうか? ニューヨークやパリに違いない…

ニューヨークのアートスクールに自分の書と願書を郵送した。

2か月経っても、何の返事もなかった。もちろん大して調べもせずにネットでたまたま見つけた学校に、書を送って入学どうです?など、ヘンな話なのだが、ひょっとしたら担当者が興味を持ってくれて、返事や許可がおりるかも?などと、楽観もいいところであった。

「直接学校の窓口まで行って、話しに行ったらいいんかなあ?」
「はぁ?何のこと? くらいの反応だったらどーすんの? わざわざニューヨークまで出掛けていって…」
などと夫婦でどうにもならない会話をした。

2004年12月。ここは兵庫県朝来町。ド田舎の居間でパソコンに向かっていた。すでに神戸住吉の賃貸は解約の話をして、後先なく私の実家に戻っていた。それでもまだ、パリの学校とか今から探しても高そうね、とか未だ ”なんとなくイメージ” の世界から出られていなかった。貯金を使っての自費渡航を考えていたから、そこも気になったのは仕方ないのだが。

寒い田舎の年末、妻のドテラ姿も板についてきたころ、まさに藁をも掴む思いで段ボール箱の本に手をつけた。すでに住吉の家には置ききれないほどの美術・文字の本を神保町はじめ全国の古本屋から買いすぎて、置き場所がなかった。それをどんどん実家に送って移していたのだ。

掴んだ藁は「世界の文字」。題はなんの変哲もない、キリル文字や美しいローマ時代の「ローマ字」が百科事典のように並んでいる。「そうよなぁ 文字がやっぱり好きなんよなぁ」

ページをめくっていると、アラビア文字、が出てきた。
「これはなあ…よくわからない。タリバンか?」
まだ2001年のテロの記憶が新しかったりして、まったくいい印象がない。十把一絡げにして申し訳ないけど、情報がないとはそういうものだろう。

しかしその下の文章を読み進めると、「その書法は数百年、オスマン帝国の時代から、綿々と受け継がれ」とある。しかし例にのっている文字はそんなオーラは何も感じなかった。日本の書道だって千年以上続いて、綺羅星のごとく名手がいるのに、この事典には本当のアラビア文字が載っているのか? 数百年も受け継がれている技が、こんなものだろうか。果たしてこんなものを人間が一生懸命に継ぐだろうか… 

実際に確かめに行くとしたらコッチじゃないの? 

ここからは電光石火、すぐにイスタンブル行きのチケットをとり、市街地のホテルを予約した。

何のあてもないが、トルコは親日国らしい、ということと、ネットで検索して出てきた「イスラム藝術研究所(IRCICA=イルシカ)」の存在が唯一の希望だ。
いわゆる学校ではなさそうだが、ここに行けば何かわかるだろう、というノリで先ずはここを目指した。

年始、夫婦でイスタンブールの空港に降り立ち、なんとかホテルに辿り着いたが、まず電車やバスの乗り方から勉強。
IRCICAは、サッカーのイルハン・マンスズが所属していたベシクタシュ・スタジアムの近くにあった。海辺の坂の下の売店近くで道を訊く。

「イルシカ、ネレデ?」

普通、街の人は英語が話せないので、指さし会話帳を使って話す。ネレデ、はnerede、「どこに?」というトルコ語で、この日何回も使った。とりあえずネレデ?といえば、「知ってる人いないかー」と周りの人に聞いてまわってくれる。イルシカはアカデミックな場所なので、知っている人がなかなかいなかったが、ちょうど私たちが居た場所の坂を登ればありそうなことがわかった。

イスタンブルはどこに行くにも、とにかく坂が多い…。

トルコの西の端に位置するイスタンブル市は、黒海とエーゲ海をつなぐボスポラス海峡を挟んで西と東に分かれており、海峡を見下ろす丘には、新旧入り混じったビルや住居が雑多にぎゅうぎゅうに立ち並び、その間にどデカいモスクが点在する。そこに沈む夕日の様は圧巻だ。

オスマン帝国はすでに無く、イスタンブル(コンスタンティノープル)がイスラム世界の首都でなくなって久しいが、今もなお「藝術の首都」で、藝術の優れた遺産や専門家が集まっており、その道を目指す人は、各国からここを目指して「上京」してくる。

さて、そんな坂を歩いて登ると、それらしい門がみえた。イルシカの建物はオスマン帝国末期の皇帝(スルタン)の宮殿跡で、その威厳に気後れする。

初日はそもそも、「まず電車やバスの乗り方を覚えて、町を歩き、イルシカの場所を確認する」ためにあった。
もし誰かに会えることになって、約束の時間に行けなかったらどうしようと心配したのだ。

「うーん これがその建物か…」と門の前で観光客気分でウロウロしていると、

「そこで何してんの? 何か用か」
門衛が不意に声をかけてきた。

「えーっと、トルコの書道を勉強したくて日本から来たんです」
「・・・・」

すごく訝しがられると思ったが、なにやら事務所と内線で話してくれているようだ。

「〇〇さんがいるから入って」

とあっさり建物のほうを指さした。恐る恐る広い庭を通って中に入る。
「どっちかな? あの突きあたりか?」
部屋の入口に立つと、机に向かう年配の紳士がみえた。

「入って、どうぞ」

彼が誰なのかわからないが、さっき門衛に言ったことを繰り返した。

「で、アラビア文学でも勉強してたのか?」
「いえ…」
「じゃあトルコ語?」
「いえ、それも知らないんです。 ただ書道を習いたくて」

彼はこちらをじっと見て無言になったが、
しばらく考えたあと横の電話に手をつけた。誰かに私たちのことを説明してくれているようだった。

「30分後に先生が来るから、ここで待っていなさい」
「!」

30分ほどして、本当に「英語が喋れる書道の先生」がやってきた。
最初から気さくな雰囲気のその人は、エフダルディン・クルッチ先生、オスマン帝国から続くマジな正統派。
そして年配の紳士は、モハメド・タミーミー副所長であった。

「隣の図書館に行こう」

私たちは連れられて、敷地内の図書館の大きなテーブルについた。
先生はすぐに紙と葦ペンと墨をとりだして、お手本を書きはじめた。

天井の高い静かな図書館に、葦ペンと紙が擦れる音だけが響いた。

先生は飄々とした感じから一変し、長く訓練した人だけができる自信の運筆で、硬い葦ペンから想像できなかった活きた線を書いた。

そして私たちはここに移住することを決めた。

(2020年2月記す  移住は2005年)

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