育つぶ~『恥ずかしいという感情なんかいらない』
「できなかったら恥ずかしい…」
小学校に上がった息子くんには
既にある程度恥じらいの気持ちが醸成されているようだ。
誰にでもある恥じらいの気持ち。
そう、誰にでもある。
もちろんパパにもある。
特に若い時は、人の目が気になって気になって仕方ありませんでした。
冒頭に「誰にでもある」と書きましたが、
息子くんの恥ずかしがる感情は、実は遺伝か?
と思うところもあります。
恥ずかしいという感情は、遺伝なのか?
と思うところもありながら、
遺伝じゃなかったら、どこで? どうやって?
そういう気持ちは作られるんだろう?
と考えるところもあります。
「もう◯歳なのにそんなことして恥ずかしい〜」
「お友だちはもうそんなことしてないでしょ?恥ずかしいなぁ」
息子くんの振る舞いに対して周りから
そう言われているのを耳にすることもある。
妻は、そういう言い方で振る舞いを正そうとする傾向がある。
おばあちゃんは冗談めいてそういう言い方をする。
保育士さんたちもそういう言い方をするときもあるんだろうな。
そうやって投げかけられる言葉が原因の一つなのだろうか?
恥ずかしいという感情が遺伝じゃなければ
ご丁寧に周りの人たちが入れ知恵してくれているということだ。
もちろん悪気があって言うことじゃないでしょう。
一方で、冷やかしだということもあるでしょう。
言い方や、言う人の息子くんとの関係、シチュエーション…
場面に応じて意味が違ってきます。
でも、幼児はそんなことまだ分かるはずもありません。
言われた言葉をそのまま受け取り、
自分なりに理解しようします。
『コレは恥ずかしいことなんだ』
と。
息子くんが恥ずかしがることが、
周りの人にしてみれば、特にパパにしてみれば
恥ずかしい?
と思うことがしばしばあります。
本当に恥ずかしいと思って言ってるのかな?
周囲から、それは恥ずかしいことだと指摘されて
息子くんが生活の中で触れる数々の情報から培われる感情。
それは学んだ感情と言えます。
自然に、内なるところから湧き上がる「恥ずかしく感じる気持ち」ではないのですよね。
もう既に、どこかで学んだ、様々な「恥ずかしい」が
息子くんにはあるようだ。
でも聞くと、たいていは恥ずかしがる必要がないもののように思う。
余計なことまで恥ずかしがっていると思います。
これは早いうちに直していかないと
後々大変なことになってしまいます。
「できなかったら恥ずかしい」
「分からなかったら恥ずかしい」
こういう気持ちが、どれだけ当人を委縮させるか。
パパ自身の経験から言えば、その威力はかなりのもの。
恥ずかしい思いから逃げられるなら何でもします。
その場を取り繕うためにごまかすし、ウソもつくし、
知ったかぶりもします。
ただでさえ汗かきなパパが
尋常じゃないほど汗をかく。
湧き出てくる。
自分のできる最大限の力を行使して
その場を切り抜けたい。
その思いだけにとり憑かれて
パパの脳をフル回転させる。
恥ずかしいという感情は、
パパが持つ悪い側面を浮き彫りにしてきました。
行動や発想を抑制して、パパを極端な利己主義者にしてきました。
それで、今のパパがあります。
自分のこういう部分は好きじゃありません。
好きじゃないというか、キライです。
自分から消し去ってしまいたい。
でも自分にそういう側面があるということを受け入れるよう努めて、
なんとか対処法を実践しているところです。
周囲に流されず、周囲に余計な影響を受けず、
自分自身で考え、自分を信じ、行動する。
人として、これが大事だということを
パパは人生の大半で学びました。
今でも恥ずかしいと感じることはありますが、
そういう場面に遭遇することは明らかに減りました。
今まで気にしていた大抵のことが
気にならなくなりました。
I don't care anymore.
洋楽の歌詞に散々出てくるようなこの表現。
これが今のパパの気持ちを良く表しています。
とはいえ、これから徐々に周囲の人間と関係を持つようになって、
思春期にも突入する息子くん。
周りを気にするなという方が無理なのかもしれません。
でも、恥ずかしいという感情は劣等感しか生みません。
「照れる」というのとはまた違います。
恥ずかしいという感情は、自分という人間を周りと同化させないといけないという気持ちを急速に醸造します。
もしくは自分を透明化、空気化させてしまう非常に強力な病気です。
人間としての活動を抑制する力にも優れた、非常に強力な病気なのです。
こんな感情、なくていい。
その感情を抱いた人にとって何か良いことがあるんだろうか?
少なくともパパにはなかった。
課題は、どうやってこの気持ちをなくしていくか。
まずは、周囲の人間からの刷り込みをなくすこと。
その人の主観で勝手に感情を覚えさせないようにする。
あとは、息子くんは恥ずかしいと感じているけど、
実はそれ恥ずかしくないよということを
親が手本になって考え方を変えさせるようにする。
先日もしまじろうの映画を観に行ったときのこと。
息子くんは、周りがみんな自分よりも小さい子たちばかりだということに
気づいていたんだと思います。
少なくとも隣にいた子は息子くんよりも三つほど年下で、
まだ会話も一文一文話すような子でした。
しまじろうの映画は観客参加型。
スクリーンの中からキャラクターたちが子どもたちに呼びかけて、
子どもたちはそれに応える。
キャラクターがピンチのとき、
応援してとの呼びかけに応じて子どもたちは大きな声援を送る。
息子くんも一年前までは周りなんかお構いなしに、
そこにはしまじろうたちと自分だけといったように
大声で叫んでいたものです。
それから一年経ったら明らかに状況は変わっていました。
声援は送るものの、パパがやっと聞こえる程度の声でした。
どうしたの?
それじゃあしまじろうたちに届かないよ?
と息子くんに言っても、モゴモゴ…
大声を出すのを恥ずかしがってるのは明らかでした。
周りの子たちよりも年上のおにいちゃんだる自分が、
年下の子と同じ映画で盛り上がることに恥ずかしさを感じているのだろうか?
もう子どもじゃないんだからという気持ちがそうさせてるんだろうか?
それならそんな映画観にいかなきゃいいのにね。
でもそれじゃあ何も解決しない。
息子くんはしまじろうの映画が見たいのだから、
正しい解決の方向は「周りなんか気にせず、声援を送る」だ。
みんな一緒だから、周りを気にしなくていいよ。
そんな言葉をかけることもできる。
でも、効果は薄そうだ。
だって、息子くんは、いま実際に恥ずかしいと感じているのだから。
そこで親が見本を見せるしかないと思いました。
「しまじろーう! がんばれー!」
パパは、大きな声で叫んでみました。
ま、映画館は暗いですし、この映画が終われば会うこともないですし、
パパにはまったく恥ずかしさはありませんでした。
でもは自分の声で、息子くんが大きな声を出したのかどうかは分かりませんでした。
仕方ありませんね。
でもパパが大きな声を出しているのは見たはずです。
後は息子くんがどう感じて、
どう行動するか、です。
最終的に決めるのは息子くん自身。
だからパパは、息子くんが自分で決められるよう材料や環境を提供する。
それがパパが子育てでこだわるところです。
何かがきっかけになって
ある事が恥ずかしいと感じるようになったのなら、
何か別のことがきっかけになって
それが恥ずかしいことじゃないと感じ直してくれるはず。
言葉で「それは恥ずかしくないんだよ」と伝えることもできるのでしょう。
でも頭で理解するよりも、体で感じとった理解には敵わない。
パパのすることを見て、息子くんが学ぶ。
こんなに嬉しいことはないですね。