自分が「嫌かも」と思ったことを信じてみること
人が話したアドバイス(つぶやき)のようなものをいつの間にか受けとって
しまっていることがある。
「そう思わなきゃなのか」という観念が自分の中に植え付けられてしまい、知らぬ間に自分の感覚に本来はないものだったのに組み込んでしまい、実はそれが苦しくなっていたんだ、という形で気がつくことが増えた。
相手にとっては何気ない一言だったり、また相手にとっての正義の感覚そのものだったりもする。
でも実は「自分に必要のないもの」を自分の中に自然と取り入れてしまったことで、苦しんでいるということに気がつけるようになった。
「自分の気持ちを大事にする」がかなり難しいことをこの5年とても見つめてきた。
「そうだ!そうしたいんだ!」と思っていたら、実はそれは自分の感覚ではなかったということを知るようにもなった。
自分が自発的にこうしたい!みたいなものを見つけるのはとても難しいことなんだけど「これが嫌」は、“見つける”という自ら動き進めることよりは少しハードルが下がる。
私はフリーランスなので、仕事をどの観点で選んで生活していくかをとても考えながら仕事をする。
体と脳のキャパは限られてる中でいかに自分の体や心に優しく、そして効率的に稼働できるか。
目先としては良さそうに見えるものでも(対価が高いものなど)実はその中にはひどいストレスが組み込まれていたり、実質自分の健康について・ストレス・金銭面の豊かさを総合して考えた時にマイナスになるケースがよく出てきてしまうことを知った。
で、あれば、心が幸せで最終的にマイナスもなく、きちんとした形で充実や幸せや、対価の戻りが良いものを選ぶことが本質的に豊かなことではないのだろうか。
フリーになってから、「時は金なり」の感覚をとてもよく感じるし、考えもするようになった。今生きているこの時間そのものが私のバリューを発揮できるものになるのかをすごく考える。
バリューというのは仕事においても、幸せや、満たされる、という感覚そのものにおいても。
一つ、自分に無理を強いられるような嫌なことがあると途端に全ての時間がそのことに汚染されてしまって、他にやりたいことに手がつけられなくなる。
例えば私にとってそれは
「なんでこんな言い回しをするんだろう」
「かなり人のことを下に見ているな」
「ぞんざいな扱いをされた」
「これは八つ当たりになるな」
「情報がそこまでないのに、丸投げで私が無理して配慮して対応しないといけないの?」
「パワハラだよね、これは」
が上記に値する。
新しい仕事を始めた今年、これが起こるたびに体が悲鳴を上げるようになり、本来手をつけていきたい他でいただいている案件の仕事に全く手がつかなくなってしまった。
仕事をして生活をする土台のベースをかなり崩されることがわかった。
世間的なことを挙げれば忙しかったり、またストレス過剰な仕事をした時にお酒に逃げる、だったり、買い物で発散する、だったり、誰かに愚痴ってストレスを発散することでまた頑張れる、みたいな例は本当によくあるけど(過去の勤めの時の私もずっとそうだった)本質的に満たされないものの中で働いたりすると、途端に本来必要のないものにフォーカスして脳がバグってしまうケース。
それって本当に幸せで自分の人生を生きていることになるのかな。を、今フリーランスの私にとっては対象が「対価」というかなりわかりやすい面に、直結してかなり現れてしまっていた。
「でも、ここを我慢すれば一定の金額が入ってくるし」
「感謝の言葉がなくても、金銭面で返ってきてるし」
危険なのがこれが常態化すると戻れない心の歪みになってしまうということ。人生の中でずっとこれをきっとやり続けてきた。
我慢の限界だった。先に、体が悲鳴をあげてくれたということがすごく良かったことだったようにも今は思えています。
「仕事=案件を終了するというときに、必ず考える損得勘定、それが対価とともに、自然に聞こえていた人の意見。
以前、友人から「でもその仕事内容でこの金額がもらえるならすごく割は良いよね」という話をされたことがあった。
仕事内容だけ取れば、また友人の感覚を持って話すとしたらおかしい発言ではない。
ただ私の感覚の中では、「え?こんなにストレスでこの対価?」という観点があったにも関わらず私の中ではそれを受け取ってそのまま「そうだよね、割としては良いよね」と、進めていたことに気がついた。
自分の本当の気持ちは「そんな金はいらん、その代わり健康を返してくれ!」という悲鳴が本当は混じっていたのかもしれない。
タイムリーな話なのですが、直近で受け取れないようなメッセージが来たので、さてこの仕事を終了する、というところのフェーズを今から作らなければいけません。
相手に対して何をどう伝えてこれを捨て去るか。
また少し悩ましい感覚を持っています。