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自由帳①(死)
ちょっとこれから適当に自分の思ったことを書いていこうかなあ的な。
死について
死はこの世、ここに残った人達のものである。 死ぬ人は死んだら終わりなわけである。何もできないわけではない、死ぬ前に愛する人たちのためにできることは沢山ある。ここでは、だれだれに感謝しておくべきだった、や、後悔しないように、は、話さない。 死ぬ人、つまり私たちは、自分のため、愛する人のために早いうちに死についての話をしなければならないと感じる。
私は母の死がとてつもなく怖く感じる。 衰退していき、死ぬ。これはある程度母の死を受け入れる時間もあり、当然辛いが準備ができる。私のいう死のための話は突然死のことである。私は愛する人達が死んだら、どうなるかがわからない。ショックで立ち直れなくなるか、自分も後を追って死ぬか、平然としていられるか。。わからない。わからなくていいのだろうが、。
若い才能ある有名人がニュースになると必ず、可哀想、まだ若いのに、などといったお悔やみの言葉が見られる。 若く死んだら可哀想なのか?と思う。彼らを良く知らない人たちから発せられる「かわいそう」という言葉。
私はいつ死んでも幸せだ。 私は今、時々足が出て寒いが、幸せの毛布にくるまりながら生きている。私は愛する人に伝えたい。私はあなたの息子でよかった。あなたの弟でよかった。あなたの孫でよかった。私はあなたの友達で良かった。私はみんなと関わることができ、話すことができ、笑うことができ、悲しむことができ、時にはむかつく感情をも持つことができる、幸せであったと私は思われたい。死んだけど彼は幸せだったんだなと。 私はそこに残った愛する人たちのために、そんなことを伝えたい。
そして、母や、愛する人たちから同じような言葉が聞けたとしたら、私は、死んだ愛する人たちを追って死のうとする事は100%に近いほどないだろう。 そんな話を愛する人たちとしたいし、するつもりだ、すべきだ。なぜなら私たちは生きているようで、死んでいるのだから。そしてもう一個。私が死んだ時、私のことだけを思うのではなく、あなた自身のことも想ってほしい。分人主義というものがある。愛する人が死んだ瞬間、それは残された皆が私に出していたあなたの分人も死んだことになるから。私は関わってきたみんなをこれからも愛します。