映画『関心領域』の感想〜普通の家族であればある程異常さが際立つ〜【新作映画レビュー】
映画はとある軸で二種類に分けられます。
「元気が出る楽しい娯楽映画」と「気分が落ち込んでしまう映画」。
また、とある別の軸でも二種類に分けられます。
「説明描写が多く分かりやすい映画」と
「直接表現せずに観る者の想像に多くをゆだねる映画」。
今回紹介する現在公開中の映画「関心領域」は上で説明した二つの軸で考えると、両方で後者の部類に値します。
今世紀最大に重要な映画かつ、どんなホラー映画よりも恐い映画とまで形容されていた本作ですが、観た感想としては決してそれらの文言が大袈裟ではないと感じました。
具体的に気になったシーンやこの映画全体の挑戦やメッセージ性などについて纏めていきます。
まずこの映画、序盤から圧倒されます。正直にビビりました。
「なぜ始まっているのにずっと画面は暗いままなのか?」
「なぜこんな壊れたような音が爆音でなっているのか?」
始まって数秒立ったときからこの映画が只者ではないことに気づかされます。
そんなオープニングがしばらく続いた後画面が映すのは穏やかな風景と、ごく普通の一般家庭の穏やかな日常、風のせせらぎ、小鳥のさえずり、仲よく遊ぶ子供たちの声、映像と音がさっきまでの不協和音を消し去るように一遍とします。
さっきまでの壊れた映像と音響は一体何だったのか、考える暇もなく微笑ましいともいえる一つの家族にフォーカスが当たります。
この家族こそがこの映画の主人公一家であり、映画は主にこの一家の目線で物語が進行していきます。
映画の予告やチラシ、パンフレットなど情報を入れればすぐわかる話なのですが、これはアウシュヴィッツ強制収容所の長を務める父と、壁一つ隔てたすぐ隣に住むその家族のお話です。
私自身も当然そのことが頭に入った状態でこの家族の日常を観ていたので、どうしてもそれを前提に見てしまいます。
しかし、もし何も知らない状態でこの映画を見始めた場合、この家族のおかしさに気づくのは一体どこらへんなのだろう?と少し気になります。何しろ収容所の中の惨状についての描写は極めて少なく、ユダヤ人の収容されている人たちが映るシーンはほんの少ししかありませんでした。
”ホロコーストを描いた映画”で私が観たことがあるのが
「シンドラーのリスト」「戦場のピアニスト」「縞模様のパジャマの少年」の3本ですが、どれも虐殺シーンが映ります。実際に起きていることが酷いので当然ですが、トラウマになりかねないような描写の連続です。
そういった意味ではこの関心領域にはそういったシーンがないので一見大したことないのでは、と考えがちですが、あえて直接的描写をしないというアプローチによって前述した映画に負けるとも劣らない、心に傷をつける映画になっています。
私が本当に恐ろしいなと常に感じていたのが、よく出てくる庭で家族が遊ぶシーンです。必ず、楽しそうな家族と綺麗な花や菜園の並ぶ庭に焦点は充てられつつも、それを越して”壁”が必ず映っています。
この壁の不気味さ。そして直接は映らないからこそ、壁の向こうを想像せずにはいられず、その不穏さと庭の穏やかさにあまりに温度差がありすぎて一種の気持ち悪さ、心地悪さを感じてしまいます。
そして常に耳をすませば、誰かの叫び声や銃声が聞こえてきます。音だけが向こうから聞こえてくることがこんなに恐いのか。
授業中、どこか違う教室から先生の怒鳴り声が聞こえてくると凄く恐怖心を感じませんでしたか?
世の中にはホラー映画や戦争の恐ろしさを伝える映画が数多ありますが、見えないことこそが最大に恐いのではないか、と思いました。
自分でもこの恐さというよりも悍ましさといった方が近いこの感覚を上手く言語化することが難しいです。ただ、自分に照らし合わせてみても、もしかすれば自分の見えないすぐ近くでとてつもなく恐ろしいことが起きているのではないかと考えてみたり、今も地球上のどこかで悲鳴を上げている人たちがいるのではないかと考えてみたり、なんだか気が滅入ってしまうような感覚に陥ります。
普通に考えて隣でとんでもない、人類の黒歴史とも呼べるレベルの虐殺が行われているのに、のうのうと隣で楽しく暮らしてるなんて頭がいかれてるだろ!って思いますが、はっきり言ってその通りです。
特にこの奥さんについてですが、楽しそうにここでの生活を満喫しているように見えて、実際に頭がいかれてないとそんな風には過ごせないと思います。通常を装うことは=で見過ごせないようなことから意識を遠ざけることですから、普通であればあるほど第三者が俯瞰してみると異常に見えるのです。
こんなアプローチの仕方でホロコーストの恐ろしさを伝える手法がかなり斬新でした。
途中、急に画面が真っ赤になって
「遂には本当に壊れたんじゃないか?」
と思ってしまうような不協和音が爆音で流れてくるシーンがありましたけど、あれは本当に何だったんですかね?とにかくずっとこの映画が不気味すぎて恐かったです。
他のホロコースト映画にはない、この映画のオリジナリティとして
”虐殺する立場”の目線がやはりあると思います。
どのように効率的な処分をするのか、を話し合っていたり、人の単位を”体”で数えていたり、あくまで普通の業務的な会話であればあるほど、異常さや胸糞さが際立ってきます。
頭のねじが外れていないと、この役職にはつけないし、隣で起きていることにいちいち関心を向けていては普通に生活できない、ということなんだろうなと感じました。
この映画を観てどうしても考えずにはいられないのが、我々観客にとっての関心領域っていったいどこまでなんだろう、ということです。
本当に目に見えずに進行している悲惨な現状はたくさんあることと思いますが、どこかで「本当は見えているはずなのに関心の外に置いている」ことはないのか、と考えさせられるわけです。
私が個人的に身近に感じる事例として、現在被災地となっている能登半島のことがあります。SNSを開けば現在の状況が見られるし、実際助けを求める人たちがたくさんいる中で、自分には関係のないこと、関心外のことであると多くの人が片づけていやしないのか。
それは人間が自己防衛のため、自分の気が滅入らないようにするために領域を決めて、外のことは見捨てるという、ある種この映画の家族のような状況と一致すると思います。
私は一度も能登を見捨てたことはありませんが、領域内にいる人が真剣に困っているときに自分も親身になって考えられるような人間でいたいと思っています。
この映画の主人公たちが愚かであるならば、同じ国民でありながら被災者を見捨てる人間も同様である、そう言った教訓を学ばなければいけません。
皆さんもこの映画を観て、自分の「関心領域」を見つめ直してみませんか。