神田橋條治の治療思想と東浩紀による郵便論的世界
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神田橋條治先生に「精神分析とイメージ」(1979)という論文がある。
神田橋條治先生は、精神分析の歴史の中で、葛藤が、生きられる体験であるのではなく、概念的な、ようするに、無意識的領域にあるものとして、次第に奥まった場所へと理論化されていくことを述べ、さらにそれを慨嘆しつつも、必然的な流れであった、という。
この結果、自由連想どころか、診察室の解釈としてですら、葛藤は何らの会話の材料にはならないのだ。葛藤は「目に見えるもの」ではなくなった。「耳でやりとりされるもの」「共有されるもの」でなくなった、といったほうがわかりよいのか。
この葛藤の「目に見えるもの」ではなくなったという状況で、「では、どのようにして、そのような眼には見えない、葛藤、が、じっさいに存在していると理解できるのか」「そのような葛藤をどのようにして治療と結びつけるのか、あるいはそれが可能だと主張するのか?」という問いが出てくるだろう。
このとき、これまでの精神医学の流れの中で、たしかに「個人の症状」としては「目に見えないもの」になっていった「葛藤」、主観的なもの、悩みではなくなっていった葛藤だが、それが、急速に「外在化」していく、つまり患者を取り巻く環境の中に見出されるものになっていった歴史があると思う。それは、「パパ、ママ、ワタシ」のなかにではない。それなら、たんなる精神分析の枠内における、初期的な葛藤の概念化の段階に過ぎない。
葛藤は、「厄介なもの」「排除されるもの」としての精神病、あるいは、社会的に対人関係的に、様々な多面性を持って「反復」(たとえば友人関係、職場関係、患者医者関係の中で反復される厄介さ)されるものとして、「外在化」(社会問題や心理学的問題として学問の中で外在的な主題として現れる)するようになった。
境界例、発達障害、愛着障害はその部分的な例だろう。
境界例は、アダルトチルドレン、機能不全家族、しがみつき、ストーカー、さまざまな厄介な「外在化」としての「見えるもの」として、社会のなか、あるいは医学の外部から、表れ出てきたのである。つまり、「個人」や「医学」の枠を超えて「見えるもの」としての姿を表してきたのである。
そして、その「治療論」は、概念化、社会学化、心理学化されて「見えるもの」になった「葛藤」を、ふたたび、「個人にとって生きられる葛藤として、いきいきした感情や行動の体験として、取り戻す」という形になる。「概念化されてしまった葛藤の生」を「いきいきとした現在のなか」に取り戻すというわけだ。しかし、これは、「精神分析の歴史」としては完全な逆行にすぎない。なぜなら、「葛藤」が「見えないもの」になっていく過程自体は、精神分析の歴史における必然的な過程としてあったからである。
神田橋條治先生の治療論における、「雰囲気」、「非言語的要素」は、こうした問題点を回避するような、方法論的折衷法として、位置づけられる。雰囲気や非言語的要素として「見えないもの」のままで、しかし、「体験できるものとして」再び、葛藤を「その場」で再―演場するもの、としての位置づけである。
しかし、これは、ほんとうは、「雰囲気」「非言語的要素」という言葉の表面からは考えられないくらい、広大な領域への、現象の解放としてあったわけである。
これは、いわゆる「発達性トラウマ」治療法の、無数の方法が、殆どバラバラのように見えて、一つの共通点、つまり「個人も医学も超えた領域」を対象としている、そういうところにすでに「見える化」されている。
神田橋條治先生の治療論の発展としては、二重の流れとして表現できる。
つまり、「ファントムの世界」文化的な世界でのハウツーの開発。
そして、「普通の人間関係、素人性の復活」つまり「非言語的な」そこら辺にありふれていて記録も言語化もされずに、永遠につづいてきたし、つづいていくだろうひととひととの関係の世界の重視。というより、「それが本質である」ことへの強調。理論や文化によって汚染されていない、あるいは汚染が少ない状態での、率直な人間関係の「治療への利用」。
この「非言語的な領域」は達人的治療技術の世界とつながっていて、「離婚融合」などの診察技術などにもその一面は表現されているだろう。
この2つの流れの特徴として重要なのは、「ファントムとしてのハウツーの開発」は、個人や医学を超えた、ときにはオカルト的な方法論であるにして、それはハウツーとしては、形が残っていく。だが、しかし、「非言語的で、率直な、人間関係」の方は残っていかないことである。もしかしたら、「ジャーナリズム」的な形で、残る可能性はあるが、そうなるともはや本質はそこには現れない。言語化や理論化を「あえて排除する」「意図的に排除する」ところに本質があるからである。それは「雑談」「率直」「身体感覚」「しなやかさの重視」などと表現されているものとは同じようで同じではない。なぜなら、それをかりに理解したつもりになってもそれを実行しようとするときにはその都度アドリブ的にそれを自分なりの考えで解釈し、「代理―表象」化するわけには行かないからだ。
(治療場面のここでは「率直さ」を処方しました、とカルテに記載できるような代物ではない。)
そういう「理解」ではないのだ。
たとえば、「身体感覚へと結びついた」「身体感覚が賦活された」という処方や所見があったとしても、それは「ファントム界」の領域、ふたたびやはり非言語的なものであった「身体感覚」がコミュニケーションの場において、「イメージ、概念」として取り上げられるようになった、というだけのことだからだ。これは「身体感覚を利用した治療法」というハウツーであって、非言語的な、素人性のある、率直な、語られざるものではない。
僕が最もその「カタチ」の表出に近いと思っているのが、現在31巻まで出ている「治療のこころ」という、講演会の記録、かつ講演会というよりも、「治療者による治療者の記録」「治療共同体」の現場の記録のように読める、小冊子である。しかし、これは、いわば記述心理学的方向、あるいはジャーナリズム文学的方向で、やはり「ファントム」化されていくという、第一の「ハウツー」の方向性の変種であると言える。
この事情を考えていくと、ふと、精神分析にある「エス」とか「イド」とか呼ばれている概念のことが思い浮かんでくる。
これは、僕の理解では、ごちゃまぜ、混沌、あらゆる言語化を拒み、言語化をしかも拒みもしていない。ただ、言語化されたら「エス」でなくなるというだけだ。
単に言語化できないだけでなく、行動や感情、それこそ雰囲気や非言語的な形態としても「カタチ」すなわち「ファントム」として表れ出ることがありえない。
つまり、「エスを利用した治療法」「エスを処方するハウツー」は原理的にありえない。
「エス」を「母子渾然一体」とか、「集合的無意識」とか、表現してもそれは概念化であって、「ファントム」であって、しかも「解釈」であるから、「エス」そのものからむしろ逃亡している。
さて、次は、この葛藤の考えを念頭に置きながら、哲学者の東浩紀さんの「否定神学批判」を巡る、いろんな本を、検討していく。