神田橋條治の治療思想と東浩紀による郵便論的世界 4


 
葛藤の問題に戻ると、そもそも、葛藤が現実に生きられるものではなく、「イメージ的なもの」つまり概念的なものになってしまうのにはどのような問題があるのか。
 
たとえば、「精神分析とイメージ」(1979)には、こうある。

…しかも、本来、コミュニケーションの機能を持たないものであります。こうした、いわば、精神現象の離れ小島のようなものが、なにゆえ、あるいは、どのようにして、心理的治療の中で重要な役割を果たすのでしょうか、少なくとも、このイメージ現象自体が、治癒力を持っているのではないといってよいでしょう。なぜなら、幻覚、白昼夢といったイメージ現象は、何ら治癒的役割を果たしていないのは周知のことであるからです。ところが、イメージ面接とか、イメージを用いた治療に関する報告を見ると、イメージが生じることだけで、治癒のプロセスが動かしたとしか思えない報告があります。…

「精神分析とイメージ」『発想の航跡』


つまり、イメージというのはそれだけですでに「誰か」から切り離されてしまっている心的現象であるので影響力はない。ところが、ときどきイメージがまるでドミノ倒しのように、治癒のプロセスを賦活させる、という、役割を担うことがある、と。
 
その時起こっていることは「自己の日常の意識された世界、意識された精神現象とのコミュニケーション」である、と述べている。つまり、葛藤が、「イメージ」となって、さらに「イメージ的なもの」になって、より抽象的で概念的で、診察場面から離れ、治療者の中の例えば「超自我」とか「死の欲動」とかそういった解釈概念になっていけばいくほど、それが「日常の意識された世界」との「コミュニケーション」が減るのは明らかなので、じっさい、「葛藤」という言い方でこのように論の主題にすることも葛藤の力を削ぐ「イメージ化」の一種である。このような気持ちが、「ambivalentという記述を禁止しようという提案」(1979)にまさに文字通り表明されているだろう。「ambivalent」を文字言語として記述するのをやめる。「葛藤」がじっさいに「自由連想」を引き起こさないならば、葛藤である意味はないというわけだ。
 
ここでも「コミュニケーション」という言葉が出てくる。イメージは「コミュニケーション」を引き起こし、交通するための道路とならないと、あるいは自由連想の引き金にならないと、その特質を発揮できない。葛藤からそのような「生きた力」が奪われていった歴史が精神分析の歴史であるというわけである。
 
そして、このような数珠続きに誰かを変化させるような働きはまさに「抱えと揺さぶり」のうちの「揺さぶり」の働きである。
 
このとき、何が問題になってくるかといえば、前の文章では、「人類皆発達障害」という世界になって、「抱え」の力が弱くなっている、ということを書いたわけである。
 
そして、「抱え」というのがしっかりしてこそ、「言語ゲーム」の構造は働き、「コミュニケーション」の「交通」も働く。こういう言い方をしているのは、たとえば哲学者・批評家の柄谷行人は『大江健三郎 柄谷行人 全対話』で、大江健三郎のノーベル賞記念講演「曖昧な日本の私」に触れて、精神分析の治療は、「ambivalent」を「ambiguous(あいまい)」のままに保っていくことだ、と述べている。

神経症というのはambivalentなんです。精神分析の治療というものは、それをambiguousにすることだといってもいいと思います。それは葛藤の原因を取り除くことではなくて、たんにそれを知ること、つまり、解決できない状態に自分があることを率直に認められるようになることですね。両義性を肯定できることが「治る」ということなんでしょう。

「世界と日本と日本人」『大江健三郎 柄谷行人 全対話』

つまり、どっちつかず、引き裂かれた状態、葛藤の苦しい状態を、解決の方向へと向かうのではなく、そのまま維持する能力が、いわばそのひとの「自然治癒力」であって、自然治癒力とはそのような過剰に変化をはらんだ心の状態でいわば「自由連想」の泉が吹き出している状態である、と表現できるだろう。そして、そのような「自由」の状態には、「抱え」がないととても耐えられない
 
ここで注意して置かなければいけないのは、神田橋條治先生における「自由連想」、は、すでに典型的な「座椅子の上での言語的自由連想」のような、必ずしも「コトバ」の形を取る必要のないものであって、コトバからコトバへ、映像から映像へ、動画から動画へ、行動から行動へ、あるいはその相互の移り変わり、あるいは、それらの複合なのであって、とくに「筋肉運動」(もちろんそれは「非言語的現象」だ)があるかどうかというのが重要視される。口で話していると、喉と口、顔などの「筋肉運動」は起こっている。手で文章を書くと、手の「筋肉運動」は起こっている。パソコンで文章を書いていると、もっと小さな、キーボードを打つ運動しか「筋肉運動」はない。なにか詩を読んでイメージを喚起され、夜中に暗い道の中を散歩に出かけるのも自由連想だ。
 
ここまで書いて、いわば「抱え無き」(抱えの少なき)、「世界人類皆発達障害」の時代における、精神療法の射程が少しずつ明らかになってくる。
 
どのような諦めなのかも、あるいは何を肯定しようとしているかも少し僕には理解できるような気がする。
 
つまり、医療の枠組みのなかでの「言語ゲーム」では、「抱え無き」「二人で行われる相互の個人的治療法の共同研究」であって、ここには、「自由連想的起爆点」はあってもなくてもいい。診察室はいわばシェルター、研究室、そんな役割である。しかし、診察室以外のもっと広い場所で、つまり診察室のそとで、患者が、より広い世界での「自由連想」のなかに巻き込まれる。ここに、おそらく、『精神援助技術の基礎訓練』の眼目がある。診察室は「頭のなかでの試行錯誤(葛藤)」を用意して、その「試行錯誤(葛藤)」は診察室の外で実行される。診察室の外での「抱え」はもはや偶然性に期待するかもしれないが、その人が生きてきている限り、どこかのどの時期かで、何らかの「抱え」を受けてきたはずである。その「抱え」すらなければ「抱え」を作る試行錯誤(葛藤)が続く。
 
ここでは、撤退戦ではあるが、診察室と診察室の外の「図と地」が入れ替わっている。
 
医療の中で、「現実生活の中ではできなかった治療的試行錯誤」、を行うのではなく、あくまで「治療的試行錯誤」は現実世界で行われる。しかし、その作戦は、医療の世界の中で立てる。つまり、診察室は「作戦室」のようなものになる。
 
作戦室にいる治療者は、仲間である。転移の対象というより、模倣の対象であって、おなじように、「抱えなき世界」において生きてきた戦友なのである。
 
東浩紀さんの「否定神学批判」の文脈に戻ろう。
 
さきほど言及した哲学者・批評家である柄谷行人は、「言語ゲーム」の外部に「他者」として、子供や外国人、精神病者などを挙げて、「言語ゲームが通じない存在」による「言語ゲームのゲーデル的脱構築」を『探求』で行った。僕はそれと同じような構造を神田橋條治先生の「非言語的現象」の重要視の中に認めたが、けっていてきにそれが問題になるのは、「世界人類皆発達障害」になって、もはや「非言語的なもの」が「抱え」の役割を完全には担えなくなってくる、その状況が来てからである。
 
哲学者の東浩紀さんは、こうした体系(言語ゲーム)と脱構築(ゲーデル的脱構築)は否定的なもの(ネガティブにしか表現できないもの)によって外部に措定されているに過ぎない、「否定神学的」なものであって、超越論的なものが発見されては入れ替わるだけの、袋小路であると批判した。それで、それを乗り越えるには、超越論性の複数性や「コミュニケーション」を肯定することだと考えた。
 
ここで、『精神援助技術の基礎訓練』に戻ると、「世界人類皆発達障害」の世界で、精神療法の診察室で行われている精神療法を含めて、すべての「言語ゲーム」の世界は、「抱え」を失い、その「非言語的基盤」を失って、「ばらばら」になったのだ。
 
これは、東浩紀さんがいう「郵便論的世界」に似ている。
 
この「ばらばらになった」互いに小さな「言語ゲーム」の世界をつなぎ合わせるのが、「郵便論的コミュニケーション」である。
 

…フロイトはしばしば、複数の無意識が直に連結される現象に注意を促していた。…彼らの無意識は直に、媒介によらず応答しあう。(注・つまり言語、イメージ、その他の「代理表象」による「媒介」なしに連絡が生じる)…そしてこの過程全体において両者の意識は、自分たちの無意識が行った情報交換とその処理について知らない。ここでは症状はシニフィアンではなくエクリチュールとして機能し、意識的知による同定(症状の解釈)を迂回しつつ互いの無意識を往復している。…

「存在論的、郵便的」

この、おそらく、東浩紀さんによる「郵便論的コミュニケーション」の具体的描写において、「言語ではないもの」の重視、解釈の迂回などの強調が重要である。
 
小さな「言語ゲーム」へとばらばらになったまま散らばっている多数の世界がまずある。それを統一する原理はないし、そのひとつひとつの「言語ゲーム」を支える「抱え」はもはやない(抱えの力はどんどん弱くなっていっている)。しかし、そのような「ばらばらな島々」が「無意識が連結する」事によって時々つながってしまう。このとき、「自由連想」の力が働いていることを強調しているのも重要である。具体的には、治療者はふつうたくさんの患者を観るわけだが、そのとき、沢山の患者を診ている自分自身の診療の中でこうした「複数の無意識が直に連結される」。その方法とは、治療者が「言語などの媒体を通ることなく自己の底に沈殿する無意識に自由に注意する」いわゆる「自由に漂う注意」すなわち「自由連想」がその手法である、ということになる。
 
つまり、「ばらばら」になって互いのつながりを失い、「一つの言語ゲーム」としての体をなしていない複数の「言語ゲーム」が散らばっている世界で、そのような「複数の言語ゲーム」を時々連結するのは、「自由連想」、である、となる。
 
このとき、「診察室」という「ひとつの統一した世界」も「ばらばらになった複数の世界」のうちのたった一つになっている。しかしそのかわりに、「診察室」は世界の「ミクロコスモス」ではない。「ばらばらになってはいるが広大な世界に散らばっている僕らが生きている世界のうちの重要な一つの世界」である。
 
治療者と患者は診察室という箱庭を失った代わりに、広い世界の中に、放り出されて、すくなくとも受動的に「外部」と対峙することを「結果的に」実現したというわけである。
 
しかし、いまだに、理論的にすらまだ問題が残っている。
 
先程僕は、東浩紀さんの『存在論的、郵便的』の内容から、「複数の無意識が直に連結される」ために、フロイトが「自由連想的態度」を利用していた、というところに注目した。しかし、この「ばらばらになった世界」で、「抱え」が乏しく、そのような状態で、「自由連想」は難しいという、それが「精神援助技術の基礎訓練」の基礎的前提だった。
 
ばらばらの世界を自由連想によって簡単につなげるわけには行かない。そんな簡単にはいかない。
 
ここには政治的な問題もあって、このようなばらばらの世界で、それでも恵まれている人は恵まれているから、「たくさんの抱え」を得ることができる。そしてそういうひとは「自由連想法的態度」によって複数の無意識を直に連結できるようになって、なおさら自分自身が健康になるというわけである。だから、「たくさんの抱えを持たない・そもそも抱えを持てない、持ちにくいような障碍」がある場合、「ばらばらの世界」で苦痛と苦悩なしでは、極めて困難で生きがたい。
 
僕は「精神援助技術の基礎訓練」は、むしろそのような「たくさんの抱えを得ることが難しい人」たちに対して書かれてある本だと認識しているので、境界例、発達障害、愛着障害、などそもそも「抱え」から排除され続けてきた歴史を持つ人達はどうやって行けばいいのか、というのを、最後に、少しだけ考えてみる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?