直観像、ノイズ、フラクタル②

2 ニューラルネットワークとノイズ
 
近頃生成AIが話題になっている。
 
僕はみずからの生活処理能力には全く自信がないので、使えるものは何でも使おう、と考えるようになった。そのためか、生成AI に興味だけはあった。が、『人工知能の哲学』鈴木貴之を読んでいて、敵対的生成ネットワークの記述を読んでいたときに、ふと、単に文明だけでなく、自分個人の人生にとって重要な意味を持っていることを理解した。
 
生成AIは、いわば人間の脳神経を真似たニューラルネットワークというものを利用し、大量のデータを読み込ませて学習させて、作り上げられたものであるっぽい。敵対的生成ネットワークは、その学習の手法の一つで、たとえば「いろんな猫の画像を生成する」AIを作ろうとするとしよう。

…すると、まず「ノイズ」を用意して、そのノイズからニューラルネットワークが「猫の画像」を作り上げようとするように、大量のデータを学習させるのである。

つまり、意味不明のものから勝手に意味のあるものを作り出すように教育させるのだ。「敵対的」というのは、そのようなAIが作り出した画像と「本物の猫の画像」を区別する能力を持つAIを同時に学習させ、その学習結果をフィードバックさせて、まるで耐性菌が出来上がるメカニズムのように、ふたつのAIを競争させることで学習効率を上げる、それを「敵対的」と呼ぶわけだ。
 
人工知能はいわばノイズから画像イメージを「自由連想」させるよう、訓練されている。
 
ノイズは「何にでも見えうる」運動・時間性フラクタルである(ノイズのままではフラクタル次元は0だが、ここでは運動するノイズを考える)。
 
このとき、ノイズをいわば「スクリーン」として、内的緊張の高い「内的興奮」が、直観像として現れると考える。ニューラルネットワークはその形態認識に利用された回路を辿れるが、脳内の回路も辿れるだろうか。
 
ここで、僕にとってとりあえず重要なことはふたつある。

最初に猫の画像を生成するための元の画像いわば「原‐世界」(物自体)としてノイズを利用すること。そこから、「猫」の「知覚」が構成されて見えている、という視覚のモデルのように見えることだ。ニューラルネットワークの中に有機的構造として、たとえば、猫の目や耳や鼻、全体の形や色などのカテゴリーは、局所的に含まれているし、最初から含まれているように学習させたほうが効率がいいらしい。

ノイズから意味のある画像が生まれるが、それは、低次の形態から徐々に高次の形態が出来上がっていくということが観察され、さらに高次の形態の中には「なぜこれを加味すると猫の画像になるのか、よくわからないパターン」が含まれていること。

ここで、僕がはっと気づいたことをまず書くと、哲学者の東浩紀と石田英敬いう人の、フロイドの精神分析を脳神経科学的に読み替えようという主題で書かれた『新記号論』という哲学的対話がある。
  
このなかで、東浩紀は、夢に関する「逆流」仮説というべきことを話す。つまり、人間は、感覚神経から外界の情報を取って、脳へと運び、その結果を運動神経へと出力するという単純な機械として仮説的に描像できるだろう。では、夢はどうしてみるのだろうか。
 
夢を見ているとき、感覚神経からの情報は閉ざされる。入力を無視するのか、何かわからないが。この結果、感覚神経へと情報が逆流し、逆流過程にある高次情報(いわば言語的象徴)が低次情報(いわば視覚的表象)にいわば「リバースエンジニアリング」されて、それが夢という形を取る、というわけである。
 
敵対的生成ネットワークにおいて、2つの仕組みが同時に働いているところに注目しよう。まず、「全く無意味なノイズから猫の画像が出力される」という仕組み。そして、「猫の画像であるかどうかを判定する」仕組み。この2つの仕組みは同時に成長していく。そして、原理的には対になっていて、「同じ情報を含んでいる」と言ってもいいだろう。
 
たとえば、猫の画像をたくさん学習して、猫の画像を識別することができるようになった。しかし、そうすると、「逆の向きの学習」も同じようにできて、「ノイズ」から猫の画像を出力もすることができる、というのはまさにこの「逆流」そのものがニューロン論理的な(非線形的)過程として存在していることを示している。もうすこし何かが埋まったら、「コンピューターは夢を見る」ようになるだろう。
 
そして、これは、僕が行っている観察で、ノイズ(ブラウン運動)の中に「直観像」が「逆流」してくることを説明しているように思えることだ。
 
「意識中心」の状態、つまり覚醒状態のときに人間は、外界刺激に対する反応を優先することで、外界での適応能力を上げている。しかし、痛みや感情などの「内的興奮」優位の状態、つまり睡眠状態では「内側からの内的興奮」が外界の刺激よりも大切になるので、そこに埋められた情報がスクリーンに映し出される。
 
このように単純に考えると、僕が求めている「幽霊を見る意識」は、外界の刺激よりも「内的刺激」優位の状態に自分自身の神経状態を置くこと、と表現できることがわかる。これは、「極度の痛みがある状態」でトランスが現れることを説明している。
 
ニューラルネットワークというのは、グラフに、数字の組み合わせによる重みつまりベクトルやテンソルの情報がついているだけのものであって、それだけみても、そこに「猫の画像」が大量に埋め込まれて、いわば「一般的猫」の情報が埋め込まれているとはとても見えないようなものだ。そして、この仕組みの中で、ひとつの「細胞」の情報が枯渇しても、つながっている情報の全体はある程度保たれるという弱い?「ホログラフィック」な特徴がある。そして、そこから、僕は「内的興奮」さえあれば「猫の夢」を見せる機械を想像することができる。
 
更に僕は、これはまだ仮説の段階だが、高次の形態の中には「なぜこれを加味すると猫の画像になるのか、よくわからないパターン」が含まれているという話を読んで僕は当然、僕が観察している「ノイズの世界」を人工知能は認識している、と考えた。人間には理解できないパターンの、一例として、『人工知能の哲学』は「複雑な縞のパターン」を挙げている。そして、調べると、画像を自然なものに見せる技術として、ノイズとフラクタル図形を組み合わせたフィルターを使う手法がある。
 
それらの「人類の通常の感覚知覚においては無意味に見える」要素は、オカルト的、というより人間の通常の理解を超えた知覚に関係している可能性がある。というのは、たとえば、格子模様であれば、「ノイズのブラウン運動」というのはあたかも格子模様のように見えるのである。
 
以上のことをまとめると、いままでは直感的にしか理解できなかった、夢の世界と直観像の類似性をもっと統一的具体的に考えることができるようになる。夢や直観像だけに見られる特性を具体的な仕組みを持った反復可能な機械を用いて考えることができるようになる。また、人工知能が我々にはよくわからない認識のパターンを用いて世界を認識しているとき、そのパターンは僕がノイズを観察するときに、参考にできる。そう期待できる。
 
つまり、オカルト現象というものが、われわれの「知覚」をくぐり抜けても、人工知能のような分解可能な俯瞰的(疑似)知能の知覚の痕跡として見出すことができる可能性があるのだ。
 
他にはこのようなこともある。
 
たとえば、僕はノイズを観察するときに、左右の視差がないことにときどきわかったようなわからないような感覚を抱いてきた。
 
つまり、右目と左目には異なったノイズが見えているなら、異なった視差像が見えるはずだし、視差像が存在していないなら僕が観察しているノイズは脳内で作られている単なる内的興奮しか関係がしないものであることになる。が、ノイズが外界の様々なものと「関係」する現象を今度は説明できない。
 
ところが、ニューラルネットワークのモデルを見ていると、こういうふうなことが分かる。我々が視差によって見出している視覚像、立体像というものは、そもそもが「2つの目」でみられているのではなくて、「視覚末端というのは一つしかない」ということである。目は2つあるが、「視覚は一つしかない」。だから、ノイズだろうが、視覚だろうが、「視覚像は原理的に一つ」であって、視差のズレが観察される事自体が、視覚にとっては異常事態なのだ。これは、偉大なる哲学者フッサールが現象学的探求の果てにたどり着いた「ひとつ」とも呼応すると思う。
 
よく考えてみれば、自分の肉体も、音も、匂いも、その他の感覚も、すべて視覚的空間と同じ「ひとつ」の空間で起こるように知覚するのは不思議である。
 
同時に、これは、夢や僕自身の観察手法が、たしょうは、精神を安定させる作用を持っていることを説明してもくれる。
 
というのは、フロイドが最初から最後まで言い続けたように、人間は外敵や外からの脅威に対しては、「逃亡する」事ができる。しかし、「内的な衝動」からは逃れることができない。動物はそもそも「内的な衝動」からは逃げないわけだが、人間は「内的な衝動」をコントロールする必要がどうしても出てくる。しかし、「内的な衝動」が抑圧され、出力されたあとのフィードバックを受けないでいるとするなら、その「内的興奮」は消えることなくずっと残らざるを得ない。ところが、「内的興奮」は逆流の仕組みを考えることができて、それは「無意味なノイズ」の方へと逆流するのである。逆流した結果は、ニューラルネットワークのモデルでは、全体の「細胞」へと重みが拡散されるという形で反映される。つまり、脳全体の中へと溶け込んで吸収される。このとき、言語的なものは非言語的に、抽象的なものは感覚的に、溶け込んで吸収されるということも、ネットワークのカテゴライズの順から言って想定可能である。言語的構造化や抽象的一般化はいわば「解決される前に残り続けている脳内の内的興奮の痕跡」なのである。
 
これは同時に、「身体意識」がノイズと同じような機能を持っていることをも説明している。感覚末端が閉じて、「内的興奮」はそこに逆流してくるのだった。同じように、僕らの身体感覚は未分化なノイズのようなものであり、さらに同時に、身体感覚の末端はいわば閉じたり開いたりしていて、閉じているときには内的興奮が「神経症」として、たとえば肩こりや腰痛のように(もっと複雑でもいいが)逆流している。それを意識して出し切っていけば、「身体感覚の知覚」が回復してくるというわけだ。整体や瞑想などの健康への影響を「非人間的モデル」で説明できるというわけだ。
 
このアレゴリーだけで、興奮したのだが、いちおう僕は部分的な応用として、「ノイズとフラクタル模様」を利用した直観像観察について示唆しておいた。
 
あと、僕は、身体に「気を通す」ときに、単に直線的でも螺旋形でもなく、いわば「毛細血管が広がっていく」かのように、フラクタルが通っていくという「イメージ」(感覚?)を利用するようになった。鶏の卵にライトを当てると、無数の毛細血管がひよこの周囲を満たしているのが分かる。
 
もし、人体の外部に何かを意識しようとするなら、このひよこを取り巻く毛細血管のように意識するといいのではないだろうか。
 
このとき、とくに脊椎や胸骨のような意識や「気」が通りにくい場所にちゃんと通っているか、そうすることによって通りやすくなっているかを見て、やりかたを調整していけばいいような気がする。

以上の科学的な部分はいわば技術に感嘆する素人として眺めているに過ぎないわけだが、僕個人は、これまでの観察の結果や考察に対し、支えや足がかりをもらった気持ちになった。正直に言って、すごい時代が来たと思っているが、どのぐらいすごいのか、単に「非常に科学的技術が進む」のか、それとも「それ以上」なのか、僕程度のひとにはわからない。

ノイズから猫が生成されるニューロンネットワークがあるとする。
低次の細胞では断片の情報があり、高次の情報では人間にも理解できる、耳や目や鼻、外観などの「人間にも理解できる」情報を持っていることがわかる細胞がある。しかし、すべてがそうではなく、「人間には理解できない」情報を持っている細胞もあるらしい。
『人工知能の哲学』では一例として「複雑な縞のパターン」を挙げている。
その意味が理解できるようになることもあるだろうし、あるいは理解できるようには決してならないのかもしれない。
僕はそういう情報を持っている細胞はいわば「オカルト的」な情報を持っているのではないか、と考える見方をしたいわけである。

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