雑兵の星 第六話
夜も更けて山城周辺には静けさが戻った。火縄銃の煙がいまだ残り、山は麓まで靄がかかっている。
逃げだした敵は少数だが全滅に追いこんだ。しかしながら城からの大がかりな援護に、大勢の味方が痛手を負ってしまった。
左吉は何度か手ごたえを感じたが致命傷はなかった。寝床に戻り、山で採ってきた野草を手足の傷に貼りつけた。
「じいさん、弥兵衛はどうした」
仲間が訊いてきて、左吉はようやく弥兵衛がいないことに気づいた。
「知らん。まだ戻っておらんのじゃろ」
「仏になっちゃいねえだろうな」
弥兵衛がいつもと違う気はしていた。出陣前は早々にどこかへ行く弥兵衛が、なぜかずっと傍にいた。
一晩経っても弥兵衛は戻ってこなかった。
眠ったことで気持ちが落ちついた左吉は、弥兵衛の心配をした。もしや敵にやられたのではなかろうか。
夜が明けきらぬ頃、山に向かってみることにした。
骸が幾つも転がる斜面、すこし前にも同じように骸を探した。しかし弥兵衛を探すことになろうとは思いもしなかった。
歳若い骸もある。年寄りが生き延びて若い仏を見るのは耐えがたい。悲壮が左吉を襲ったとき、見覚えある鎧を目にした。仲間の亀助だった。
「亀助、なぜ先に逝く。儂も一緒に連れていけ……」
どうしてだ。どうして儂は死ねなかったのだ。左吉は地面をいく度もいく度も叩いた。しかし落ち葉のつもる山肌は軟らかく、叩いても痛みを感じることはなかった。
左吉はぽつんと取り残された。
弥兵衛は戻らず、幾人かの仲間が消えたり彼岸に立った。当たり散らす相手さえ残らないのが寂しい。
――帰ろうか。何度もそう思ったが現実が怖い。認める自信がないのだ。そんなとき、思いもかけないことが左吉を襲った。
「じいさん、腹の虫に効く薬を持ってるか」
箕吉がやってきた。近ごろは顔を見るだけで腹立たしい。どうせ丸薬を高値で売るつもりだろう。
「銭をやるから分けてくれよ」
「ない。無いものは無い」
「なんだと、馬鹿にしやがって」
箕吉は唾を吐き、木を蹴り、ぶつぶつ言いながら背を向けた。
左吉も『腹の虫』の痛みは知っていた。熱した鉄の釘が腹の中を這いずり回るような強烈な痛みだ。人の弱みにつけこんで銭儲けをしようとは性悪にもほどがある。
そうだ、さゆりのことを訊かなければいけない。左吉は慌てて箕吉に声をかけた。
「さゆりを知らないか。ここにおった女子じゃ」
「知らねえよ。あの後ワシも道に迷うて、散々な目に遭うたんだわ」
箕吉とさゆりは関わりなかったのか。左吉は心底ホッとした。
しばらくすると、同じ陣の槍部隊にいる足軽が訪ねてきた。
「腹の虫で夜も眠れんのだ。薬を分けてはくれないか」
どこで丸薬のことを聞いてきたのだろう。左吉は困惑した。
「申し訳ないが、もう残ってないわ。諦めてくれ」と断った。
そのあとも次々と丸薬を求める者がやってきた。
銭はもちろん、米や野菜、川魚を持ってくる者までいた。酷いときは行列を成して次から次へと頼みにきた。左吉はどうにかなりそうだった。
三日ほどして、また箕吉がやってきた。
いつかの剣幕が嘘のようにニコニコと笑っている。
「なあ。すごい噂を聞いたぜ。教えてやろうか」
「聞きとうない。構わんでくれ」
「聞かないと悔いを残すぞ。いいのか」
頼んでもいないのに近づいて耳打ちする箕吉に、左吉は目を剝いた。
「まことか?」
たじろぐ左吉をみた箕吉は心得たりとほくそ笑んだ。
「まこともまこと。俺様がこの耳で聞いてきたんじゃ。そこで相談じゃが」
「よしてくれ。どうでもいいわい」
とにかくこの男に関わりたくない。左吉は後退りしたが、箕吉はにじり寄った。
「なあ、丸薬がないなら、こしらえたらどうじゃ。俺も手伝うぞ」
「手間がかかるんじゃ。放っといてくれや」
「じゃあ、俺がこさえた物を、じいさんの丸薬だと売ってもええんじゃな」
左吉は昂る感情を抑えられずカッとなった。
「儂のものというな。迷惑だっ」
箕吉は黙って頷き、左吉の足元に向かって包みを投げた。ガシャン。落ちた物は鎌や鉈のように重い音がした。
「手付だ。とっとけ」
箕吉は足早にその場を去った。困った左吉が包みを開けてみると、中には数えきれない鐚銭が入っていた。馬鹿な奴だ。
しかし箕吉の話はまことだろうか。総大将が腹の虫でお苦しみだという話は。
誰かがゆさゆさと躰を揺すった。
女房かと思ったが違う。ごわごわと硬い手だ。
「お主が左吉か」
左吉は声で眠りから覚めた。目の前に甲冑姿の侍がたたずみ、恐ろしい目で見下ろしている。左吉は飛び起きて頭を地にこすりつけた。
「お、お侍様、な、何用で……」
「ついて参れ」
儂はなにか仕出かしたか。殺されるのではないか。
考えてみたが何も思いつかなかった。やがて陣幕が見え、蝶の紋が目に入った。左吉は数人の侍に取り囲まれていた。
「お助けください、命だけはお助けをっ」
跪いて縋る左吉に、ひときわ立派な甲冑をつけた侍が呆れた声をあげた。
「拙者は池田恒興じゃ。戦にきて助けろと申すでない」
このかたが犬山城主、儂らの大将――左吉は頭の中が真っ白になった。
「いま戦場では病が流行っておる。知っておるな」
腹の虫のことか。左吉はこくりと頷いた。
「聞いたところによれば、お主の、その、丸薬が評判になっているとか」
「丸薬――」
左吉はハッとした。まさか他の者のように、丸薬を寄こせというのか。
「恐れ入りますが、人にやってしまい、もうございません」
恒興は怪訝そうな顔で、若い侍と話し始めた。そしてまた左吉に話しかけた。
「実はな、箕吉と申す者が拙者を尋ねてきた。お主の丸薬が、よく効くと申してな。まことか」
左吉は頭を左右におおきく振った。
「箕吉の申すことは、お信じになってはなりません」
「実際に丸薬も持っておったぞ。お主の物ではないのか」
「ちがいます。儂は渡していません。まこと手元に無いのでござりますっ」
恒興はすこし考えてから言った。
「それなら……今すぐ作れ。できるな」
「無理です。あれは作るのに、ひどく時も手間もかかります」
「なに。無理だというかっ」
傍にいた若い侍が声を張り上げ、腰の物に手をかけた。左吉は思わず「ひっ」と叫んだ。
「勝蔵、よせ」
恒興は若い侍をいなし、腕組みしてまた思案した。そして、
「今から申すは他言無用。じつは総大将殿が、腹の虫にて、お苦しみじゃ」
総大将……箕吉のいうことは嘘ではなかったのか。
「お医者さまが、お出でではございませぬか」
「それが此度ばかりは、お医者の薬がさっぱり効かん」
恒興は怖い顔のままだった。若い侍の抜きかけた刀が灯りに反射し、左吉の顔を照らす。眩しい。
総大将が腹の虫にやられてしまえば、戦はどうなるのだ。敵に知られたら儂らも只では済むまい。左吉の躰に緊張の稲妻が走った。
丸薬は上手くいって一月、いや二月はかかる。間に合わない。
左吉は間もなく木に括りつけられた。
左吉は捕らえられたまま、うたた寝していた。
(おまえさま、赤子が、赤子が……)
女房が顔を覗きこみ、躰を揺すっている。儂はもしや夢を見ているのか。なぜなら女房が若い。
赤子が泣いている。しかも火がついたように……一体どうしたのだ。何があった。ようやく寝返りが打てたと喜んでいたではないか。泣き叫ぶ赤子を女房が抱きながらあやす。そして(赤子が土間に落ちたのです)と申し訳なさげに涙ぐむ。赤子の額からは血が滲んでいた。
――左吉は目を覚ました。
なぜ赤子の夢をみたのだろう。思いだすと、今でも辛い。
狼藉者に拐われて行方がわからないままの赤子だ。若い頃、なかなか子宝に恵まれず、三十歳を過ぎて授かったひとり娘だ。
左吉は深く息を吸って、吐いた。まだ夜明けは遠い。仕方なくまた目を瞑った。
「おじいさん、起きて」
左吉は突然声をかけられて飛び起きた。薄暗い中でも誰かはわかった。
(さゆりではないか。今までどうしていた)
声を抑えて話す。そばに侍がいるはずだ。
「見張りは追っ払ったから平気だよ。それより渡したいもんがある」
左吉が繋がれる木は陣の裏手にあるが、松明の明かりは届いていた。薄闇の中、さゆりは懐から小さな布を取りだした。
「これ、使っておくれ」
さゆりが布切れを拡げると小さな黒い粒――丸薬がひとつ入っていた。
「これは、おまえの腹が痛む時にやった物ではないか。いいのか」
さゆりは無言のまま、左吉の懐へ布切れをねじ込んだ。
さゆりは黙ったままだった。無言のときは何か含みがあるのだ。
「なにか言いたいことが有るのではないか」
「う、ん……」
沈んだ声だ。なにを迷っているのか。
「もし菓子を手に入れたら……」と言いかけて口をつぐむ。そのうちにニコリと明るい顔になった。
「実は前に、おじいさんに会ったことあるんだ。だから戦場で会ったのは初めてじゃないんだよ」
「えっ」
前に会った? 左吉はどう思い返しても心当たりがなかった。
「歳のせいかな。覚えておらん」
「ほら、市女笠を覚えてない?」
すぐに思いだせなかったが、薪の、と言われて思いだす。城下で遭った市女笠の女か。言われてみれば背恰好が似ているようだった。
〈続く〉