雑兵の星 第一話
あらすじ
戦国の世。山で暮らす左吉夫婦は、辛い過去を背負いつつも慎ましく生きていた。薬を買いに城下に出かけた左吉は、信長の南蛮菓子が病を治すとの噂を耳にする。病の女房のため、武功を上げて南蛮菓子を手にすると決めた左吉だったが、いざとなると人殺しが嫌になり逃げ出してしまう。後悔から骸の弔いに戻った左吉は、盗みを働くさゆり、雑兵の弥兵衛と共に手を組み落城の名案を思いつく。ある日、弔い坊主から女房が死んだとの噂を聞いた左吉は、自暴自棄から戦での死を望むようになってしまう。一方、戦場では腹の虫が流行りだし、左吉の丸薬を求めて争奪戦が始まった。左吉は無事に南蛮菓子を手に入れ、女房の元へ戻ることができるのか。
「ええか。笠を深く被って前を見るな。槍は脇にはさんで突っ走るんだ。遅れるなやっ」
「へ、へえ……」
不甲斐ない返事に、小頭の又兵衛はチッと舌打ちした。
天正三年七月、美濃岩村城。左吉は池田恒興の陣で槍を構えていた。蓑笠に藁と木板でこしらえた粗末な鎧、小柄で手脚も細っちょろく、浅黒い顔に刻まれた皺――左吉は足軽ではなく雇われ雑兵だ。
「おい、出てきたぞ。仕留めろ」
誰かが叫ぶ。左吉も背中を押されて駆けだすが、脚がもつれてみっともなく転んでしまった。
二十年ほど前のこと。尾張の百性だった左吉は乱取りの襲撃に遭った。
狼藉者は容赦なく左吉の両親をなぶり殺し、子を連れ去った。左吉夫婦は田圃にいて被害を免れたが、全てを失くして途方に暮れた。
それから二人は山のあばら家で暮らしはじめた。
女房のふねは躰を病んでいた。左吉は女房の躰に効きそうな生薬を探しては作り方を工夫して飲ませた。女房に尽くすことだけが生き甲斐だった。
しかし、ついに心配していたことが起きた。まだ肌さむい朝、ふねが酷い咳をし始めたのだ。左吉は背をさすって白湯を飲ませたが、顔色は悪いままで咳もなかなか治まらなかった。
どうしたらよいのか。儂にしてやれることはないか。そうだ。山菜を摘んでこよう。うるしの新芽、うど、つくし。きっと躰に効く。
まだ暗いうちから背負子を担いでけものの罠を見回り、山菜を摘んでまわった。帰り道、親とはぐれた雉の子を見つけて連れ帰ることにした。きっとふねも喜ぶだろう。
お天道様が頭の上にくる頃、家に戻ると土間にふねが転がるように倒れていた。
「どうした、具合が悪いのかっ」
「すこし外に行ったら、眩暈が……」
ふねは背を丸めて激しく咳きこみ、少しだが手のひらに真っ赤な血を吐いた。
左吉は動揺してふねの背を何度もさすった。そうだ、薬だ。薬を飲ませなければ――女房の躰を横たえて甕から水を汲み、手製の丸薬を口に入れてやった。
「さあ飲むがや。きっと良くなる」
ごくり。
驚くほど大きく喉が鳴った。眉を寄せて呑みこむのも辛そうだ。駄目だ。お医者のところで薬を貰ってこなくては病は治らない。左吉はふねを抱えながら、何を銭に替えるか思案した。
城下は月に一度の市がたっていた。
人の行きかう通りで脚を止めた左吉は、薪を銭に替えるすべを考えた。
いつも好意にしてくださる庵に向かうか。
いや、それでは大した銭にならない。左吉は道端に背負子をおろし、通行人に声を掛けてみることにした。
「ま、薪はいかがかの……」
小半時そうしていたが、誰も気に留めない。左吉は溜息をついた。薄汚れたみすぼらしい爺に誰が声など掛けようか。しかし、ひとりだけ左吉のことを見ている者がいた。
「じいさん。そこで売られちゃあ、困るんだわ」
道のはす向かいにある屋台の女だった。
あぶら、と書かれた布が庇の下で揺れている。商売の邪魔だとようやく気づいた左吉は慌てて荷を背負った。これからどうしようか。その場に立ち止まって考えていると、後ろから声を掛ける者がいた。
「そいつを譲ってくれないかい」
若い男女連れだ。男は蓑笠に脚絆の旅姿で、どうみても百姓の顔つきではない。女は市女笠で顔は見えなかった。薪を買ってどうするのだろう。野宿するようには見えなかった。
男が二十文の鐚銭を差しだした。思いのほか多くて驚いたが、薬のために貰っておくことにする。
「ありがとうごぜえやす」
左吉が機嫌よく去ろうとすると、「もし」と引き留められた。訊きたいことがあるようだ。
「犬山の城に、織田信長どのの乳母様がいるというが、まことか」
聞いたこともない話だった。
「申しわけねえ。儂は山の田舎者で、存じません」
男女は顔を見合わせ、無言で立ち去った。やり取りを見ていた屋台の女が左吉のもとに近づいてきた。
「ふん、城にいる大御ち様のことを訊いてきたんだろ」
「誰だって?」
「大御ち様だよ。男が言っただろう。織田信長様の乳母だと」
オダノブナガ。はじめて聞く名だ。
「信長様が南蛮菓子をくださったという噂だよ。それが目当てじゃないか」
「南蛮菓子とは、どんな菓子じゃ?」
女は舌打ちした。答えるのが面倒になったらしく、店に戻っていった。
南蛮菓子とはどんなものか。左吉はどうしても知りたくて、客の相手をしている屋台の女を待つことにした。女は左吉に気づき、あからさまに嫌な顔を見せた。
「あんた。まだ居たんかい」
左吉はどうしても話が聞きたかった。
お医者の家は通りを入ったところにある。
「あったあった。あの甕だ」
目じるしの土色の甕には、くすり、と書かれている。しかし左吉は手前で脚を止めた。目の前にさっき薪を買ってくれた男女がいるではないか。
二人はお医者の順を待っているようだった。どうにも気まずいが、薬を手に入れなくては女房の元へ帰れない。左吉は手ぬぐいで顔を隠して後ろに身を寄せた。
このお医者の薬は評判がいい。二人も誰かに聞いてきたのだろうか。しばらくして前の客が出てくると、二人は中に入っていった。戸口から微かに女の声が聴こえてくる。
「城下の方に訊いて参りました。大御ち様のお手元に、南蛮菓子はありますか」
「…………」
お医者は返事に困っているようだった。
「大御ち様の病は、まことに南蛮菓子で良くなったのでしょうか」
左吉は耳をそばだてて聞いた。病に効く……菓子が病に効くというのか。
「どなたに訊いたか存ぜぬが、もう残っておらぬ。忘れなされ」
「しかし」
女は食い下がったが男に止められたらしく、声がしなくなった。
二人は間もなく出てきた。男はチラリと左吉を見たが、黙って通りすぎた。女の顔は見えなかった。
左吉は二人が去るまで息を留めていた。ようやくふぅーと息を吐く。そして屋台の女に聞いた話を思いだした。
――織田信長様からもらった南蛮菓子で、大御ち様はお元気になられたという噂だよ――
病に効くのなら左吉も手に入れたいと思った。しかし今のようすではお医者に訊いても無駄なようだ。
風に乗り、かすかに物売りらしい口上が聴こえてきた。
耳を頼りに探すと土手に人だかりができていた。左吉は女房の土産話にしようと近づいてみる。
「もうすぐ戦だ。戦に出ないか。こんないい条件はないぞっ」
兵を募っているようだ。立て札になんと書かれているのだろう。左吉は仮名しか読めないので、傍にいた男に尋ねた。
「あれは、なんと書いてあるので」
「じいさん、じいさんも興味あんのか」
周りから笑う声がした。気さくそうな顔をして、棘がある物言いをする男だ。
「戦にでれば、兵糧がたんと出るし扶持ももらえる。しかも米十俵だ。無事に帰れば下人に取り立てるとは、いいことずくめだ」
周りからどよめきが起こった。下人とは侍の御用聞きだろうか。たしかに条件は申し分ないが、歳とった者は取り立ててもらえまい。
「さあさ、名を書いとくれ」
人がわらわらと押し寄せた。左吉は途端に弾きだされ、肩で大きく息をした。ただでさえ腰が痛むのに、走り回る戦など滅相もない。
眩しい初夏を思わせる陽ざし、光る川面に舟が行きかう。すでに戦の準備が始まっているのか。
「総大将は、織田様だとよ」
左吉は漏れきく声に耳を疑った。オダ、といったか。もしや南蛮菓子のオダノブナガ――左吉は人を掻き分けて立て札の前に立った。
「これは、なんと読むんです?」傍にいた男に指さして訊いてみた。大将名のところだ。
「池田恒興。今の犬山城主様だよ」
大将が犬山の殿様。そして総大将はオダノブナガなのか。
左吉の脳裏には、ある思いが閃きはじめていた。
〈続く〉