雑兵の星 第七話(最終話)
「おじいさん、脚から血が出てるよ。怪我でもしたの」
「ああ、これは藪で引っ搔いたんだわ。歳だから治らんでな」
さゆりは心配そうに覗きこむ。そして頭から手ぬぐいを外し、左吉の脚に巻きつけた。
「すまんな。ところで城下では連れがおったではないか。どうしたのだ」
さゆりはしばらく黙っていた。
「城下にいたのはね、南蛮菓子の噂を聞いて食べたくなったからだよ」
「そうだったか」
儂もそうだった。南蛮菓子が病に効くと噂を聞いて、雑兵になった。それなのに、肝心の南蛮菓子を手にすることを忘れてしまっていた。
「おじいさん。丸薬と南蛮菓子を、取り替えてもらいなよ」
「丸薬と南蛮菓子を取り替える?」
さゆりは突拍子も無いことを言う。左吉は目を丸くした。
「取引だよ。総大将は織田信長の嫡男というじゃないか。腹の虫で苦しんでるんだろう」
「取引する……総大将と?」
「そいでね。もし南蛮菓子を手に入れたら……あたいに一つくれないかな」
さゆりは真っ直ぐに左吉を見た。真剣な目だ。心から南蛮菓子を欲している。
「なぜ南蛮菓子が欲しいんじゃ」
「それは……」
さゆりは視線を落としたが、左吉は続けた。
「実はな。儂も南蛮菓子が欲しい。女房に食べさせたい」
さゆりは顔を上げた。
「もしや、おかみさんは、病なのか」
「ああ。胸だ。彼岸に立ったと噂で聞いたが、まことかは判らない」
「すぐ会いに行けっ。その目で確かめろよ」
さゆりは興奮して涙目になっている。左吉は苦笑いした。
「儂は……意気地がないのだ。まこと女房があの世に逝ったなら、儂はこの先どうして生きたらええんじゃ」
俯く左吉の目をさゆりはそっと覗きこんだ。
「死んだと決めつけるなよ。会いに行って確かめろ」
左吉の前に座りこんださゆりは、神妙な顔で話し続けた。
「あたいは南蛮菓子を手に入れろと命じられた。でも、もういい。おかみさんに食べさせて欲しい」
左吉は言葉を失った。南蛮菓子を手に入れる熱は、すでに冷めていたのだ。
だが、さゆりがそれほど欲しいなら、何としても手に入れてやらねばならぬ。
「わかった。南蛮菓子を手に入れてやる。待っていろ」
「あたいはもう行かなきゃ。南蛮菓子は、必ずおかみさんに食べさせてあげて」
そう言ってさゆりは立ち上がった。すると、いつもは隠れて見えない額の傷跡が左吉の目に飛び込んだ。
傷……額の……左吉はさっき見た夢を思いだした。
「さゆり、さゆり」
左吉は何度も名を呼んだが、さゆりの姿はすでに消えていた。
「どうだ。丸薬をこしらえるか」
翌朝――若い武将が左吉の前に現れて訊いた。
「すまんの。実は一粒だけ懐に残っていたんだわ。年寄だて、物忘れが進んでもうて」
左吉は申し訳なさ気に告げた。
顔をしかめた武将はさっそく左吉の縄を解き、何処かへ向かった。昨夜の陣とは違うようだった。
五瓜の描かれた陣幕を抜け、さらに奥の陣小屋に連れて行かれた左吉は、そこで縄を解かれた。
ここが総大将の休む場所のようだ。武将に続いて左吉が中へ入ると、池田恒興が恭しく話し始めた。
「御館様、お待ちかねの丸薬でございます」
陣小屋内には恒興のほかに一人の武将が控えていた。左吉はなぜか肌がざわりと粟立つのを感じた。
もしやここにいるのが御館様と呼ばれた人物なのか。御館様とはオダノブナガ、その人なのか。
左吉は奥にも気配を感じた。いちど瞬きして目を凝らすと、誰かがこちらに背を向けて横たわっているのが見えた。
酷く苦しげな息づかいだ。横たわる人物はひと呼吸おき、ゆるりとこちらに寝返った。
「や……左吉ではないか」
聞き覚えのある声に左吉は息を呑んだ。この方は、いつぞやの若侍ではないか。
「お、お侍さま……」
眉間に深く刻まれた皺、苦悶の表情、瑞々しさがまったく消えていた。
戦の総大将はオダノブナガの嫡男だと聴いていた。もしや総大将がこのお侍なのか。左吉の頭は混乱した。
脇に控える御館様なる人物は、若様とどこか顔つきが似ていた。切れ長の目、尖った顎、険しい表情をしているが、目はどこか父親の憂いを帯びていた。
恒興が「早う」と左吉を急かした。左吉はハッと我を取り戻す。
「……左吉。お主が丸薬を持っておるのか」
若様は問いかけたが、左吉は声も出せず立ちすくんだままだ。
「……腹の虫が暴れおって、このザマじゃ……」
また疝痛がきたようだ。あまりの痛々しさに恒興が口を挟んだ。
「信忠殿はこの者を知っておいでか。ならば話が早うござる」
恒興の視線を受けた左吉は息もできずに下を向いた。
「早う丸薬を出さぬか」
威圧的な恒興の催促に、左吉は震える手で懐に手をやった。しかし脳裏には「南蛮菓子に替えてくれと交渉するんだ」というさゆりの声がよぎった。
「お、お願いしたきことがござりますっ」
左吉が跪いて声を上げると、最初に反応したのは脇にいた御館様なる人物だった。
「此奴、血迷うたか」
御館様は鼻で嘲笑い、横目で左吉をちらりと見やった。
「丸薬とやらが惜しくなったか」
御館様の言い様に左吉は堪えきれず、顔だけをおそるおそる上げた。
「いいえ。駆け引きがしとう、ござります」
そこにいた皆が呆気にとられた。そしてお館様の反応を恐れて黙り込んだ。
張り詰めた沈黙の中、御館様がハハハと声高らかに笑うと、冷たく言い放った。
「なにを所望するというのじゃ。金か」
左吉の躰はぶるりと震えた。目線を合わさぬよう話を続ける。
「なな、南蛮菓子と、取り替えてほしいのです」
「南蛮菓子とはコンフェイトのことか。なぜに取り替えたいのだ」
「それは……」
左吉は口ごもった。そこへ若様が被せるように続けた。
「御館様、例の奇策を思いついたのは、その者です。わたくしが必ず褒美を与えると、申しました……」
若様はそれだけ言うと、息苦しそうに何度も息を吸って、吐いた。
「なに。此奴が?」
奇策とは、城内に蛇の卵を仕掛けることだろうか。
御館様と池田恒興は、あらためて左吉の顔を見た。さきほどの蔑むような目とはまったく違う、驚きの目だった。
「あの奇策はわしも驚いたわ。そうか、此奴が……」
御館様はしばらく左吉を凝視し、ひとりごちるように呟いた。
「あの奇策は願ってもない毒となる。城の奴らには、多いに苦しんでもらわねばな」
御館様はニヤリと口角を上げたように見えた。そして懐より何やら取りだし、左吉の方へ放り投げた。
カラカラと軽い音が小屋内に響く。左吉の足元に転がったのは小さな箱のようだった。
「はやく丸薬とやらを、寄こせ」
ようやく解放された左吉は駆けて寝床に戻り、荷造りをした。
女房のもとへ帰り、きちんと向き合おう。この眼でまことと向き合おう。
とかく戦場では嘘かまことか判らないことが多過ぎる。さゆりの言った通り、まずは確かめるのだ。
空が白みはじめていた。風はおだやかで鳥もしずかに鳴きはじめる。
なんと清らかな朝だろうか。戦の気配など微塵も感じない。
「よいしょっと」
荷を背負い、寝床にしていた大樹を見上げた。やはり気配がない。弥兵衛にひとこと礼を言いたかったが、叶わぬようだ。
歩み始めると「おい」と呼ばれた気がした。弥兵衛が戻ったかと目を凝らしたが、姿はない。空耳と思って踵を返すと、木々がざわめき「達者でな」そう聴こえた気がした。
薄闇の木を仰ぐと小さな眼がふたつ光ってみえた。ムササビだろうか。なんとも不思議に思ったが、どこかで弥兵衛が見ている気がする。
「ありがとう。儂はうちに帰るがね」
道すがら段々と空が明るくなり、星も随分と消えた。だが、見えずとも星はそこにあるのだ。人も同じかも知れない。
懐に仕舞った南蛮菓子を思い、そっと胸を押さえた。左吉は南蛮菓子を見たい気持ちにかられた。
「いいじゃろう。見るだけだわ」
誰かに許しを請うように呟き、木箱を開けた。白く小さな粒が三ツ入っている。
これが南蛮菓子、コンフェイトか。
真っ白く清らかに光る明け方の星のようではないか。儂はこの星を手にするためにここまで来たのだ。
女房がここにいる。さゆりや弥兵衛もいる。儂とともに帰ろう。
左吉は大切そうに木箱を仕舞い、歩みを進めた。
〈終わり〉