「帝国」とは②〜ローマ帝国〜

「帝国」という概念を紐解いていく第二弾
この記事では、「継承権を持つ政治体」のうち、①ローマ帝国 について考察していく。

●継承権を持つ政治体①ローマ帝国


ローマ帝国に分類されるのは、ローマ帝国、西ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、西ローマ帝国(フランク王国)、神聖ローマ帝国、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国、ラテン帝国、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国である。
ローマ帝国はヨーロッパ世界における「帝国」であり、その中心軸である「カイザー(スラブ系言語でツァーリ)」が中世・近世に渡って継承された。ローマ帝国は395年に東西に分裂し、西ローマ帝国が西ヨーロッパ世界の、東ローマ帝国が東ヨーロッパ世界の支配者となる。西ローマ帝国は476年に滅亡し、一度東ローマ帝国の庇護下に入るが、800年のカール大帝の戴冠により西ローマ帝国が復活する(事実上はフランク王国)。843年にフランク王国が分裂すると、中部フランク王国(イタリア王国)、西フランク王国(フランス)、東フランク王国(ドイツ)は帝位を巡って争い、最終的に東フランク王国のオット1世が962年に戴冠し、以後神聖ローマ帝国と呼ばれるようになった。その後長きに渡りドイツ王が皇帝位を兼ねるシステムにより「ローマ帝国」はその枠組みを保ち、西ヨーロッパ世界の中心軸として機能した。しかし、次第に諸侯は独立性を強め、皇帝の権力は低下していった。最終的にナポレオン1世により1806年に神聖ローマ帝国が消滅して以降も、「カイザー」の称号はハプスブルク家によって継承され、オーストリア帝国がその後継者となった。その後ドイツ統一の機運が高まり1871にドイツ帝国が成立すると、プロイセン国王は「カイザー」を名乗り、この時点で西ヨーロッパ世界における「ローマ帝国」はドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国に分裂した。一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はギリシア化して以降も東ヨーロッパ世界の中心軸として機能する。その間、第一次ブルガリア帝国及び第二次ブルガリア帝国がビザンツ帝国の影響を受けて「ツァール」を称す。1204年、第4回十字軍によってビザンツ帝国は一時的に滅亡する。その際、継承政権としてラテン帝国、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国が成立する。しかし1261年には再統一を果たし、ビザンツ帝国が復活する。1453年にオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅ぼされると、一時オスマン帝国がローマ皇帝を名乗る。しかし1467年にモスクワ大国のイヴァン3世がビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を妻としてローマ帝国の継承者を宣言し、以後モスクワ大公国およびロシア帝国が「ツァーリ」を称し東ヨーロッパにおけるローマ帝国はロシア帝国として存続することになる。20世紀初頭の時点でローマ帝国の後継者、すなわち「カイザー」および「ツァーリ」を擁する帝国はドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国の3つとなるが、いずれも第一次世界大戦およびロシア革命によってほぼ同時期に消滅し、「ローマ帝国」という概念および枠組みは名実ともに過去のものとなったのである。

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