論理的であることのキツさ
最近、「論理的能力」の有無がよく生徒に向けて問われるようになりました。私が所属する科でも行なわれているとおり、「命題を客観的に証明する試み」です。論理的に物事を把握することで、リテラシーを兼ね備えた柔軟な思考をつくることが、第一の目的として掲げられています。また、このことは多様性を奨励する現代社会において、必要不可欠な能力であると、よく言われます。
しかし、私は倫理的であることとは、実は「生きにくくなること」ではないだろうかと思うのです。
理不尽が許容される社会において、倫理的であることとは、「傷つくこと」でもある。一体どういうことでしょうか。
東京大学の不登校児の精神疾患の研究において、現在多くの不登校児が、ASDであることがわかっています。ASDとは「アスペルガー症候群」を略したものです。世間一般には「自閉症」と言われ、現在では10人に1人がアスペルガーであるという統計もでています。
ASDの特徴として、
①強い「こだわり」を持つこと
②優れた論理的思考であること が挙げられます。
ASDは発達障害の中でも、特に説明が難しく、PTSDなどとは比較にならない程に入り組んでいます。ADHDとの混合型も含めると極めて多彩です。そのため、手早く省きながら説明したいと思います。
ASDにはこだわりの強い子が多く、特定のものに強い執着心を抱くことがあり、基本的には、その「こだわり」が理解されないばかりに、適応障害として不登校になってしまう子がほとんどです。この「こだわりが強い」という要素はADHDの「ハイパーフォーカス(極度の集中)」にも見られ、発達障害の代名詞として有名です。しかし、ASDが他の発達障害と極めて特異な場所に位置するのは、②の「倫理的思考」が原因です。
「倫理的思考」とは、いわば「客観的に筋が通った考え方」のことです。ASDはこの「論理的思考」について強い関心を持つ傾向があります。
これを聞くと、多くの人は決まって「なんだ、倫理的思考が得意なのであれば、勉強や生活に支障なんてでないではないか」と考えます。確かに、論理的思考が得意であれば目の前の問題にも臆することなく対処できるでしょうし、ずっと体を動かしたりするADHDと較べれば、いささか軽いように感じます。しかし困ったことに、反対にもこのことによってASDの人間は、強烈なストレスを感じるようになるのです。
たとえば、Aくんという中学生がいたとしましょう。Aくんはある日、道徳で「努力」ということを習いました。先生は授業内に「努力こそ大切。私たちはあなたたちの努力を評価します」と言いました。しかしAくんはそれに疑問を感じ、先生に「努力には価値がない!」と言ってしまい、クラスメイトや先生を驚かせてしまいました。Aくんは「なんでみんな驚いているんだろう」と感じ、理由をみんなに聞きましたが、教えてくれません。「わからない。なんでだろう」。道徳の時間中、Aくんはとても嫌な気分に悩まされました。
さて、Aくんは一体何が間違っていたのでしょう?
答えは簡単です。Aくんは「建前」と「本音」を見分けることができなかった。つまり、物事を「倫理的」ゆえに一面的に捉えてしまったということです。
イメージを実感をしてもらうために、一応Aくんの発言の経緯を書いておきましょう。Aくんは「努力こそ大切。私たちはあなたたちの努力を評価します」という発言をどう解釈したのでしょうか?
Aくんはまず、「努力こそ大切」についてはとても納得しました。頑張ることは良いことです。しかし、「努力を評価します」という発言については違和感を感じました。努力をどう評価するのだろう?そもそも努力とは評価できるものなのだろうか?
Aくんは考えて、「努力」は評価不可能であるとの答えを出しました。私たちが人を「努力した」と褒める時は、決まって「その人の成果がある」時です。たとえば、ある子が「課題を頑張って、一日でやりました。でもどこかに置いてきちゃいました」と言ったら、私たちは「置いてきたこと」を叱りながら、「1日でやったこと」を褒めるでしょうか?褒めません。評価物は絶対に必要だからです。
そして、先生はそうした「無理矢理に評価することのできる変な努力」を「努力」といっている。これはおかしい。だからこそAくんは「(先生の指す)努力は嘘だ!」といったわけです。
私達はAくんの思考を見て、多分「理解」することはできるでしょう。しかし、ここにASDと私達の壁があります。私達は「理解することはできても、ASDの「正しいけれども無意味な考え」については「納得」することができません。
なぜなら、私達は「建前」と「本音」を知っているからです。
「発言の裏」を汲み取ることができるからです。ASDの多くは、そうした「真意」を読み取ることがとても苦手です。だから、「倫理的思考へのこだわり」ゆえに、言葉どおりに受け取り、容赦なくロジックで切ってしまう。
私達の「常識」という考えは、一見すると「論理的」に見えますが、それは「論理的思考」が不十分であるからです。では世間の「常識」をアメリカ人に話しても、通じるでしょうか?皆が良いとする考えは、結局のところ「日本のみ」の閉鎖的な「道徳」です。これは客観的とは言えません。
論理的とは誰が見ても、「正しい」と頷きざるおえないことを指します。ASDはそのため、論理的に完璧であるがこそ、「建前」と「本音」がわからず、混乱してしまいます。
心理学では、このことを「ダブルバインド」といいます。
矛盾した二つのメッセージをだし、判断させることです。
DVはその典型例です。「お前はダメだ」と暴力を振るったあとに、「でも愛してる」と抱きしめる。この飴と鞭の関係は、非常に危険です。結果的に、被害者はどっちが「本当」かわからなくなり、「停止」します。
こんなにも極端でないにせよ、社会には多くの「察せよお前」感が溢れています。ASDにとって、論理的思考とは兄弟のようなものです。だからこそ(私もそうですが)誤解を嫌います。
空気が読めないのではなく、空気が見えない。
「建前」や「事情」がわからないのではなく、想定できない。
「論理的思考」とは突き詰めれば、完全な「合理性」と「客観性」です。
最近巷で話題の「論理的思考力」とは、一種のまやかしにすぎません。彼らが求めているのは、「ちょうどよい感じにあっていて、ところどころ矛盾していること」です。結局は「社会の都合」に左右されてしまいます。
完全なまでの論理性は本人を傷つける。「建前」を生きていかなければいけない状況において、このことは致命的です。
そうした理不尽を強いる社会は悪いと言える。ならば変えなくてはならない。そしてその社会を変えようとする動きもまた空回りを続けています。たとえば、発達障害とはそのために生まれたものです。しかし「おかしな奴」を「おかしな奴」と言ってどうなるのか。昔であったら問題にされなかったものが多様性と称して炙り出されてしまうだけではないのか。問題はとても根深いのです。
しかしその社会に生まれたからには変革の希望を抱えながらも、用意された手札で戦わなくてはいけない。「そうしたもの」として受け入れなくてはいけない。また此処にも多くのジレンマが存在します。
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