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「現代俳句」2023年11月号

 気づけば12月になっていました。このままではうっかり年を越してしまいそうなので、まずは11月号をば。


列島春秋

暮の秋みな手にコーヒーカップ持ち  久留島元/滋賀

 職場の上司が滋賀在住で、年明けに雪景色の写真と共に新年のあいさつが送られてくるのですが、関西圏の中でも寒さを感じやすい地域なのではないかと(勝手に)思っています。わたしの中の滋賀は、迷うことなく琵琶湖の景色。肌寒くなってついホットコーヒーを買ってしまう。気づけば「みな」と感じるほど、コーヒーカップが目につく。そんな湖畔の風景を想像しました。

美しく仏飯を盛る寒さかな  岡田耕治/大阪

 子どもの頃、祖母が仏壇に仏飯をお供えしていたので、「わたしもやりたい」とお願いして盛らせてもらったことがあります。仏飯は湯気を召し上がっていただくのだ、と言う祖母に、「へー」と思いながら盛り付けました。炊き立てのご飯から立ち上る湯気がキッチン(あるいは仏間)の寒さを感じさせます。

直線曲線

「難解」と鑑賞について  五十嵐秀彦

 わたしは常々、俳句を読むことをもっと自分に引き付けてもいいのではないか、自分を通して考えていいのではないかと思っています。作者の意図や、句の意味を追うことを、読み取ることは大事なことです。ただ、そこだけを大事にしてしまうと、俳句はちっとも身近になりません。わたしは、日常に俳句があっていいし、ふとしたときに思い起こす句があっていいと思っているので、五十嵐さんの記事はとても興味深かったです。
 五十嵐さんが鑑賞について語っている部分があるので引用します。

(前略)読者は何も努力せずに作者から自分の理解できる範囲のものを与えて欲しいという受け身の立場ではない。読むということは、作品を自分の頭の中で何ものかに変換するという積極的な行為がともなう。俳句に限った話ではない。鑑賞という行為はそうしたものだ。

『現代俳句』2023年11月号 10頁

 正直、理解できないものを「わからないから避ける」、ということは罪でもなんでもなく、当然やっていいことだと思います。わからないものはわからないと言っても問題ないことです。
 ただわたしは、俳句に限らずどんなことでも「自分はどう感じたか」が、自分に作用し、影響を与え、変化をもたらすのではないか、とも思います。
 わたしも毎月こうして感想を書いてしますが、自分がなにを感じたかを書き留めておくべく書いています。わたしよりうまく句の解説ができる人はたくさんいて、理解が深い方もそこらじゅうにいるのですが、わたしが感じたことはわたしだけのものなので、へたくそでも自分の言葉で残していこう、と思っています。
 五十嵐さんの記事を読んで、その思いがまた強くなった今日この頃です。

第二十四回 現代俳句協会年度作品賞受賞作

目覚めさす  高木宇大

冬あたたか犬には犬の友のゐて
 散歩中、ご近所さんの犬と愛犬が親し気にしている。友だちがいてうれしい気持ちと、構ってもらえない寂しい気持ちと。冬のあたたかな日差しが、ささやかな日常を照らしています。

鮟鱇の吊られし口の真くらやみ
 深海魚の鮟鱇なら、口の中に真の暗闇を持っていても驚きません。ぽっかりと開いた穴のように見えたその様は、冬の身近な存在から突然、不気味な現実を突きつけられているようです。

六月や地球しづかに病んでゆく
 温暖化という言葉があたりまえになる前は、酸性雨という言葉をよく聞いていました。いずれにせよ二酸化炭素が原因なので、縁遠い話ではありません。卵と鶏のように、人類と地球のどちらが先に滅びるのでしょうね。

第二十四回年度作品賞 佳作

転居  石井清吾

風船の子を交番に届けたり
 イベントがあってそこではぐれた子がいたのでしょう。交番に届けているので、イベント会場ではなく(子どもにとっては)帰り道かもしれません。春って、こういうちいさな不安がそこかしこに現れる不思議な季節でもあります。

やさしく、分かりやすい俳文・俳論を書くために  武馬久仁裕

 武馬さんは表題について、具体的にわかりやすく書いてくださっていますので、とても勉強になりました。
 見出しだけを取り上げると、
一 ですます調で書く
二 改行したいと思ったら改行する
三 カタカナ語はなるべく使わない
四 一言一句をおろそかにしない
 とあります。ですます調、改行、カタカナ語については「むずかしいことをやさしく」、最後は「やさしいことをふかく」について鑑賞法の例が書かれています。
 たとえば、わたしのこの感想noteを例にすると、ですます調と改行は、おそらく問題ないと思います。
 問題はカタカナ語です。自分が知らない場合が多いので、うっかり使って伝わらないとすれば音楽用語かな。そういう専門用語にしても注釈をつけるか、最初から他の言葉で言い換えるほうが親切ですよね。
 わたしときたら、エビデンスも「海老がどうしたんだ」と思っていたくらいなので、「むずかしいことをやさしく」は、なにより自分だけがわかった気にならない、ということが大事なのだな、と思いました。
 一言一句をおろそかにしない、というところ。まず、俳句になにが書いてあり、なにを書いていないのか、ということを注視する必要があります。この辺は、わたしもまだまだなので偉そうなことは言えません。日々コツコツと、丁寧に言葉を読んでいけたらと思います。

「翌檜篇」(55)

伴走  栗田歩

家出セヨと呼びかけてくる冬北斗
 冬北斗は、空の低い位置にあります。天高く見下ろされているのではなく、目の前に冴え冴えと光る星です。同じ目線とはでは言わないまでも、どこか近くに感じたのかもしれません。「家出セヨ」は冬北斗に導かれた心の声とも思えます。

夏かしこ  初霜若葉

銃声があった場所でも蟬鳴きぬ
 銃声があれば、人は息を飲んでしまうでしょう。時間が止まったように感じるかもしれません。でも、蟬にとってそんなものは関係ありません。狩りをしようと、蟬自身の子孫繁栄こそ大事なのです。それが強さなのか、弱さなのか、わたしにはわかりかねるのですが。

架空のみぞれ  大西美優

山茶花に迷ふでもやつぱり触れる
 山茶花はちいさい花です。ちいさいものや野の花に触れるのを躊躇うことって、わたしにもあります。でも、「やつぱり触れる」と思いきるところが息遣いまで感じられるようで好きでした。どんな手触りだったのか気になります。

秋の暮  都めぐみ

終戦日在校生の祈りの絵
 祈りは生きている者にしか叶わない行いです。生きている者が祈り続ける。祈りを絶やさないでいる。些細なことかもしれないけれど、気持ちを途切れさせないことが大切で、わたしも祈りの一部なのだと思います。「祈りの絵」にはなにが描かれているのでしょうか。絵具の鮮やかな色彩を想像します。

 久しぶりに長くなってしまいました。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。持病(になってしまった症状)が重くなると、キーボードが打ちにくくなってしまうので、サクサク打てるうちに打っておいて正解でした。やればできる。
 12月号はすでに手元にありますので、また近いうちに。

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