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松山大耕さんに母娘で訊く~なぜ人を殺してはいけないのか? 【本編】死生観について

松山大耕さんに50代母と娘(大学2年生)でインタビューをさせていただいた。「なぜ人を殺してはいけないのか?」というテーマで問いを投げかけたところ、最終的には死生観という大きいテーマに行きついた。

今回松山大耕さんにインタビューできることになった経緯は、『松山大耕さんに母娘で訊く~なぜ人を殺してはいけないのか?【序編】インタビューに至る背景(リンク)』に説明しているので、是非そちらもご覧ください。

松山さん1

●●松山大耕さんプロフィール●●
1978 年京都市生まれ。2003年東京大学大学院 農学生命科学研究科修了。埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送った後、2007年より退蔵院副住職。日本文化の発信・交流が高く評価され、2009年観光庁Visit Japan大使に任命される。また、2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。2016年『日経ビジネス』誌の「次代を創る100人」に選出され、同年より「日米リーダーシッププログラム」フェローに就任。2018年より米・スタンフォード大客員講師。2019年文化庁長官表彰(文化庁)、重光賞(ボストン日本協会)受賞。2021年より(株)ブイキューブ社外監査役。
2011年には、日本の禅宗を代表してヴァチカンで前ローマ教皇に謁見、2014年には日本の若手宗教家を代表してダライ・ラマ14世と会談し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。また、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するなど、世界各国で宗教の垣根を超えて活動中。

道徳の授業① 原爆を落としたアメリカに、「それはそれ」と言える日本


德永(母):
まず初めに、「なぜ人を殺してはいけないのか」と子供に訊かれたら、松山さんはどのように答えてくださるのか教えていただきたいです。

松山さん:
そうですね、私が4年ほど広島に中学校と高校で月一回通って、道徳の授業で指導をしていた時の話をしましょう。いわゆる道徳の教科書というのはきれいにまとめていることが多く、更に今は議論することが大事だということで、言いっ放しで終わっていることも多く見受けられます。これはすごく危険だと思うんです。色んな意見があってもいいのだけれど、やっぱり先生としてちゃんと自分の思いを言わないといけないと思っています。

その道徳の授業では色々なテーマを扱ったんです。例えば、こんなことも題材にしました。私は世界で様々な国に行くのですが、中東の国では3人に1人が同じ質問をしてくるのです。
「日本はアメリカに原爆を落とされた。それなのになぜ日本は、そんな大量殺人をしたアメリカと同盟を結ぶことが出来るのか?」と。

これはすごくクリティカルな質問だと思います。
そこで広島の子供達に、
「君たちは広島に生まれ育ってきて、幼稚園からずっと平和教育を受けてきているでしょう。にもかかわらず君たちは今、日本がアメリカと同盟を組んでいることに対して別に何とも思っていないのだろうか?私自身も中東に行ってそんなことを言われるまでは、あまり意識したこともなかったのだけれど、中東の人はそれを許せないと感じる。でも日本の人たちは、アメリカを受け付けないと言う人は、そんなにはいない。それでは、なぜ日本ではそれが受け入れられているんだと思う?」

と、1時間かけて聞いてみたんです。色々な意見がありましたが、最後にある女の子が、
「それはそれ」
って言ったんですよ。それはすごく素敵な答えで、本当にそうだと思います。

「それはそれ」って言えることが、結局その人にとっても相手にとってもすごく大事なことなんですよね。その最後の女の子の一言で、クラスがビシッと引き締まったんです。


徳永(母):
許すという寛容の気持ちですね。

道徳の授業② そもそも人間は弱い生き物だから、協力し合わなければ生きていけない。

松山さん:
ある時「なぜ人を殺してはいけないか?」っていうことを一つのお題にしたことがあります。その時に私が話したのは次のようなことです。

そもそも人間は、生物的に考えると弱いですよね。ゾウみたいに大きくないし、チーターみたいに早く走れないし、皮膚が弱いし。単独で見たら人間ってすべての動物の中で弱い方だと思うんです。でもこれだけ地球上で繫栄している理由はなぜかと言うと、協力できるっていうことではないでしょうか。みんなでワークシェアして色んな役割があって、皆が協力できるからこれだけ繁栄しているわけですよね。
そもそも仲間と一緒にいないと人間として生活できない、種の保存ができないから、共食いをしないとか殺してはいけないというのが、基本としてあります。

どの宗教であっても、「人の命を奪ってはならない」というものがベースにあります。なぜそういうルールがあるのかと言うと、いわゆる昔風にいえば、「ダメなものはダメ」ということになりますが、今は「ダメなものはダメ」と言っても納得できない人もいるわけです。

例えば仏教には五戒という5つのやってはいけないことがあります。命を奪ってはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけない、淫らな行為をしてはいけない、お酒に飲まれてはいけないというものです。これらがなぜダメなのかと言うと、社会生活が成り立たくなるからです。皆で協力しなければならないのにそれをやってしまうと、信頼できないとか、そもそも生命の安全が脅かされる、など色んな理由があると思います。みんなで協力しないと生きていけないのに、協力しようとする気をおこさせないというような行為はしてはいけない、ということだと思うのです。

実はそれでもまだ、自分自身としてこの答えに納得はできなかったんです。人を殺してはいけないっていうのは、もちろん殺された方が嫌じゃないですか。自分の子供や大好きな人を誰かに殺されたらすごく嫌だし、悲しいし、喪失感がありますよね。

私自身の結論としては、
殺した方も、相当な心理的ダメージがあるんだろうなと思うんです。
殺された方も殺した方も不幸になるから。だから人を殺してはいけない。

戦争、テロなどの社会的風潮、個人的なマインドコントロールなどで、一時的に心的ストレスがないかのように振る舞うことは可能だと思うんですが、それが一生涯人を殺し続けられるかというと、そうではないし、それがその人の人生においてものすごくネガティブな影響があるんじゃないかと思います。

死刑制度という「死」について

無題...

徳永(母):
それでは、死刑はどう考えたらいいのでしょうか?死刑は不幸になった人の気持ちを汲む制度になるのでしょうか?

松山さん:
死刑制度は、被害を受けた人の慰めにはなっても究極の解決にはならないでしょうね。
完全なる終身刑の方がその人にとってはきついかもしれませんしね。

いわゆる今は、尊厳死や嘱託殺人という議論もありますが、死刑制度も執行人が誰か分からないようにしています。

スイスなどの国は3名以上の主治医以外の第三者的な医師が、もう回復の見込みない認知症と認め、ご本人が正常な頃に重い認知症になったら存命を望まないと表明し、ご家族もそれに賛同を得ていて、いわゆる殺人とか反社会的なものでなければ、医師の権限で命を絶つことができるという制度があります。

でもこれも、命を助けるという使命を持った医師が、逆に命を絶つこという選択を迫られそれを執行するということに対してのストレスとか罪悪感がすごいみたいなんです。皆が合意を得た状況であっても人の命を奪うということに対してはすごく辛い決断になるんだと思います。

自分の命を奪うという「死」、尊厳死について

徳永(母):
それでは、自分の命を奪うこと、自殺をしてしまうと、死んだ後も苦しむことになるんでしょうか?

松山さん:
自分が精一杯生き切ったという納得感があればそれはそうならないと思います。私の師匠も日本尊厳死協会というところに入っていらっしゃったのですが、禅僧はなくなる前に遺言ではなく、遺偈(ゆいげ)というものを作るんです。遺偈(ゆいげ)というのは詩です。いわゆるポエムのようなものです。
なぜそんなものを残せるのかというと、ずっと生きてきていよいよという時に、食べたくもなくなり、飲みたくもなくなるのだそうです。そうなると、1週間くらいして自然にろうそくが消えるように亡くなります。飲まない食べないという期間に入ったら、自分で一筆書いて、そのまま亡くなっていくのです。
私の師匠も自分の遺偈(ゆいげ)は居間のどこそこに入れてあると言って、その2日後に亡くなりました。

本来的には生物の一番自然な亡くなり方が餓死だと思うんですね。元気な状態で餓死になると相当きついのですが、本当に人生の最後になると死を迎える準備をするですよね。そうやって自然に命が燃えていくような形になるわけです。

嘱託殺人のニュースもありましたが、もともと主治医の方も問題だと思って、ご本人が社会的にも活躍していた女性で、自分が辛くなって動けなくなってということが耐えられない、延命しても知れていると分かっている。
最期自分で食べられなくなった時に、胃ろうを嫌だとおっしゃったのですがこれをしないと殺人ほう助になって訴えられるといことがあって、胃ろうするとなったときに、それに絶望して嘱託殺人に至ったと放送されていました。
ただ食べないという権利は認めるべきだと思うんですよね。それは最後の自分の意思だし、そこまで本当に悩みに悩み全力で生きたっていう、自分の最後の望みなわけです。そこはひとつの人間の権利と言うか尊厳にかかわることだと思います。

英語で言うと、
I was born. と生まれてくる時は産まれさせられるという受動態ですが、死ぬときは 
I die. と言うように受動態ではなく能動態ですよね。
やっぱり、本当に生き切った人が自分の最期を選ぶようなことは、重要な決断だと思います。

徳永(母):
すごく心に響きます。私も若い人たちが、動けなくなった自分のために彼らの時間を費やしてしまうのがもったいないと思ってしまいます。もっと自分たちの未来のために時間を使って欲しいです。昔話で、姥捨て山の話を聞いたことがありますが、許されるなら私は、自分の尊厳死を認めて欲しいと思います。
ここまでのお話を聞いて、若い世代はどう思いますか?

人の命と他の生物の命について


徳永(娘):
人の物を盗んではいけない、人を殴ってはいけないということに対しては、相手が嫌がり悲しむから、そしてやった自分も罪悪感でさいなまれるから、という解説に関して、その段階なら納得できるのですが、なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対しては納得できなくて・・・。これまではこの問いのどこに自分が引っ掛かっているのは気づかなかったのですが、これまでの松山さんのお話を通して、私が人の命というものに、他のものとは違う絶対的な意味を付与したいと思っているから、納得できていないことが分かりました。そこに自分の迷いがあることが分かりました。

松山さん:
それは、人間以外の命ならいいのか?ということにもなりますが、
生き物は食物連鎖的に命をいただかないと生きていけないわけですし、そうせざるを得ないわけなんですが、そこをどう納得するかということですよね。植物も動くか動かないかだけで命は命なわけです。

カニバリズムのように共食いで繁栄する生物はいません。生物は食物連鎖でつながっていて他の命を奪わないと物理的に生きていけませんよね。仏教の殺生戒というのは、無駄に不必要に命を奪ってはいけないという意味です。必要最低限自分が個体として生存するために命はありがたくいただくけれども、むやみやたらに何でも殺していいということはやめなさいと言うことだと思うのです。

人間を殺すというのは、人間を食べるわけではないし、まさに無駄の象徴で、不必要である、ということでもあります。
人間の命だけなぜ特別かと言うと、生存していくために明らかに人の命を奪う必要がないからということです。

殺しがあるアニメやPG12の作品に対して、親はどのように指導する?

徳永(母):
例えば、「鬼滅の刃」というアニメ作品は、映画がPG12という「12歳以下の子供に見せる場合は、親が説明の上でみせる」というものでした。私の子供たちがまだ12歳以下だったらどう説明したら良いのだろう?彼らが納得する説明が親としてできるのだろうかと考えて、娘と色々議論しました。「理由や目的があれば人を殺すということを正当化してよいのか」悩みます。

松山さん:
どんな場合であっても殺人は許されないのかというと、そうじゃないケースもある。正当防衛とかもありますし。

5年ほど前に京都にダライ・ラマ猊下がいらしたときに、日本の若者と話がしたいということで、私たちの質問に1時間答えてくださいました。その時のお話をしましょう。

私の友人で仏教を研究しているある女性が、タイの大学で学びながら、中学生や高校生など若いけれども妊娠してしまった女子学生への心のケアをするNPOで働いていました。彼女が一時帰国したとき、寺に寄ってくれまして、その話を伺いました。そのとき、彼女が私に質問したんです。あなたはお坊さんだから、まさか彼女たちに堕胎しろなんて言わないよね、と。当時、私は子供がいませんでしたが、今は3歳と6歳の2人の娘がいます。もし、自分の娘が中学生で妊娠したとして、彼女たちに大事な命だから責任を持って育てなさと言えるのかどうか。大いに疑問があります。

以前、ナイジェリアの女性がレイプをされて妊娠してしまったという報道がありました。彼女は堕胎を選択したのですが、彼女が属する部族では堕胎は殺人と見なす種族で、死刑判決を受けてしまったのです。最終的に死刑判決は間免れたものの、彼女はなん十発もの鞭打ちの刑を受けたのです。

宗教家として命は大切にしないといけないという立場です。お腹の中の子供も立派な命です。しかし、極端な例ですが、レイプをされて身ごもった女性に対して、お腹の中の命も命だし、子供に罪はないし、生みなさいと言うのが正義なのかどうか?

それはあまりにもひどいと堕胎やむなしとなった時、どこからどこまでが良くて、どこからどこまでがダメで、どういう線引きがあって、何を持って命の定義をすれば良いのかという疑問を持っていました。私はその点について猊下に質問しました。

これに対してダライ・ラマ猊下は、こうおっしゃいました。
「その女性が子供を堕胎するのがいいのか、生むのがいいのか、私には判断はできない。
でも、子供っていうのは生んで終わるのではなく、その子を育てなければならないし、将来その子は自分の生い立ちを知るかもしれない。周りから色んないじめを受けるかもしれない。そういう色んなことを考えて、行動しなければいけない。」

その時に、一つのたとえ話として仏陀の話をされました。

仏陀が悟りを開く前に菩薩の修行をしていた当時、特殊な能力を持っていらして、「人の心が読める」、そういう状態だった。あるとき仏陀は500人乗りの船に乗ることがあった。すると、499人は良い人だけれど1人だけ悪い人がいて、499人の命を奪ってその船の財宝を独り占めしようとしていた。その心が分かったのです。

仏陀は何をしたかと言うと、その人を殺したのです。仏陀といえども殺人をした。
放っておいたら499人の命が奪われるという状況が分かっていながら、放置しておくのはいけないと。ただ単なる1人の命を奪う殺人ではなくて、何のためにやるのかという動機が非常に大事なんだと。そういう話をしてくださった。

レイプされた女性も本当にその子の将来とか、自分が愛を持って育てられるのか、いろんなことを考えながら、その子にとって最良の選択をするべきだとおっしゃったのです。
ダライ・ラマ猊下は、堕胎は絶対ダメだという立場ではなかったし、そのあたりはフレキシブルで非常に理性的な判断をされるのだなという印象を受けました。

法とは?モラルとは?ルールとは?

徳永(母):
法というのはしてはよいことではなく、してはならないことだけを定めている気がします。国によって法律も違い、社会にそぐわない法もあるかもしれない中で、色々な選択肢がある現代だからこそ、若い世代が、昔のままではおかしいな?とかこうあるべきだな?とか感じたことを、どんどん変えていって欲しいと思いました。

今のお話のように、色々な選択肢があるというようなお話を、若い世代に聞かせてあげたいと思いました。

松山さん:
それはすごく重要で、私個人的には、コンプライアンスがあるから不正があると思っているのです。コンプライアンスと言う概念は日本にはそぐわないのではないか。例えばドイツの法律書などはかなりの分厚さで、これやってはいけないあれをやってはいけないと、書くわけですよね。

明文化した方がよい文化のところであれば必要なことも、忖度するとか空気を読むという日本の文化の中では、結局コンプライアンスをもってくると、ルールさえ守っていればいいんだろうことになってしまう。何のためにそれがあるのかではなく、とにかく規則に従っているというそれだけを考えてしまう。

例えば、仏教の五戒の中で、嘘をついちゃいけないというルールがありますよね。
しかし、本当に真実を述べてしまったら、すごく傷つくと分かっているにもかかわらず、真実を述べるということは、私はやっぱりいけないと思うんです。

私の祖母が94歳で亡くなったのですが、92歳で肺にガンが見つかったんです。
今機嫌よく生きているのに、わざわざおばあちゃんガンになったとか、手術してどうとか、正直に言う必要があるのかと。だましだましというか、機嫌よくやってもらった方がいいんじゃないか、と家族で話し合って、結局最後まで嘘をついたわけなんですよ。でも私はそれでよかったなと思っている。

こんな話もしましょう。
北九州の門司というところに出光美術館があって、その一階に創業者の出光佐三さんの記念館出光さんが述べた名言があって、心に「ビビッ」っときたのが、
「道徳とモラルは完全に違う」という言葉です。

モラルというのは社会規範、いわゆるルールを守ること。
道徳というのは自分自身の中の良心からでた、本当に相手を思う気持ちから出た行動が道徳です。

法律というのはもちろん規範、モラルとして必要なもので、それがないとどっちに行ったらいいか分からないときがでてくる。ただ、じゃあ法律さえ守っていればいいのかというと、たぶんそれは違うと思うのです。

それはモラルと道徳の違いというか、いわゆる本当の心の動機がものすごく重要なんですけれども、今そのような考えが薄れてきているようにも感じます。
だから、ルールされ守ってればいいんだ!ということで、えげつないことしたり、結果的にものすごく人の心を傷つけるような行動をしていたり。そういうことが散見されるのが今の時代に危惧されます。

多様性の時代に皆の納得を得るには?

徳永(母):
多様性の時代に、どこに線引きをしてどこに落としどころをつけていったら良いのかが、悩ましいところです。

松山さん:
多様性と言う言葉は、例えば、変なことをする人がいてもダイバーシティだからしかたないかという、ちょっとした言い訳に使われる文脈も多くなってきたと感じています。
いやいやそれは違うでしょうと、思うこともかなりあります。

何でもかんでもダイバーシティというような価値観を認めるようなことになったら、社会が成り立たなくなってしまいます。基本的には、さっき言った五戒であるとか、人間の社会を形成するうえで必要なことにおいては、「人を殺してはいいでしょ」って認めてはいけないですよね。

徳永(母):
若い人に説明する難しさはありますね。
年を重ねたからと言うことではないですけれども、若い人はどうしてもロジックに偏りがちに育ってきている感じがするので、オブラートに包むというかグラデーションのままにすることをしないで、白黒ハッキリしてしまいがちな気がしています。
こういう松山さんの禅の話は是非聞いて欲しいと思いました。

どうですか若い世代は?

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徳永(娘):
論理的に考えることと、グラデーションを付けることは別ではないと思っていて、グラデーションをつけるというのは白と黒ではない灰色のところに皆が納得するところがあるから、灰色にしておこうかとなるのだと思う。

またそれとは別な話になりますが、年が上の人は論理的に考えることを冷たい人だというのを同世代で話していて、共存できればいいのにと思います。ロジックを立てたからと言って、グラデーションをつけられないという結論に至るはずはないと思っています。なぜならロジックが立っているからこそグラデーションが成立するはずだから、そこは別なものではないし、共存するものなのに、ロジックをたてて議論することを冷たい人だとか感情がないとか大人の人たちは考えがちだと思う。議論は感情で押し切るものではないと思います。

徳永(母):
すみません、私たちはいつもこんな感じで話すんですが、こういう世代間のやり取りの中で、言葉選び一つでこんな風に感じるんだ、と気付けるのも楽しいですし、良い影響を受けています。

松山さん4

松山さん:
いやあ、おそらく15年後に、うちの娘もそうなっているんだろうなと思って楽しみにしています(笑)。

年齢効果と世代効果と両方がありますよね。
年齢が立てば変わることもあるし、その世代で考えがあってつながることもあるし。
Z世代は、私たちの世代では全く考えられなかったような選択とか行動とかを感じています。

徳永(母):
線引きをせずに交わっていけるのがいいのかなと思っています。


禅問答とは?

徳永(娘):
母から、「禅は問いを永遠に考え続けるものだから、問いそのものに対しても多くのインプットとアウトプットを繰り返すというバックグラウンドがあった上でその問いを選び、しかもそれに結論を出すものではなく、永遠に考え続けるものだよ」と言われました。

私もその問いをずっと考えることがあるんですが、松山さんの中では一つ一つの問いに対して、自分が納得できる問いをお持ちなんだなと今日感じました。

例えば人を殺してはいけないということに関して、お子様をお持ちだからこそかもしれないのですが、納得感を持って出せる一つの問いが松山さんの中にあると感じました。

ただ、いったい禅というもののゴールはどこにあるんだろうというのが疑問です。問いを終局的に考えるところのゴールは結論を出すことなのか、ずっと考えていることの方が禅にとってゴールなのかどっちなのでしょうか。

松山さん:
禅には禅問答というのがあって、いわゆる論理的な回答であるとかサイエンス的な回答ではないんです。よく、面白く煙に巻いたらいいんでしょ!と言う人もいるのですが、一つの禅という世界の中で、その禅問答には禅的な唯一無二な答えがあるんですよ。

よく言われるのは、悟りを満月とするならば、禅問答はその満月を指さす指だといわれます。
指ばっかり見ていてもお月さんは見えないですよね。それをずーっとたどっていくと、先に大きい満月がある。

そういう意味では、先はどれだけでもあるわけですよね。そのどっちの方向に向かうかっていうのが、問いだと思うのです。1つの満月の方向を見ていくということ。その一生涯に渡ってやるべきこともあるし、努力することもある。そのどの方向にむかって努力するのかっていうのを導くのが禅問答であり、良質な問いだと思います。

問いにもいろんな問いがあると思うんです。どうやったら儲かるか?とか、どうやったらもてるか?とか。
そんな問いだけやってても満月は見えないんですよ。ちゃんとした本質的な問いを、しかもそういう方向に向かって問い詰めていくのが、先は遠いんですけれども大事なことなんですよ。

徳永(娘):
それでは例えば、なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して、松山さんが何らかの納得感を持って答えられる答えがあったとしても、矢印はずっと続いている状態で、その方向性を導いてくれながらそれをずっと満月を目指して考えていくことが、禅と言うことですか?

松山さん:
そう、答えは変わるんですよね。子供が生まれたことによって、論理を超えてそうだよねと思えるようになるとか。年齢によっても立場によってもかわるんですよね。でも基本的な方向ということはあるわけで、一つの答えにその時は到達したとしても、自分の成長とか社会状況の変化とかによって変わっていくし、常に求め続けなければいけない。人を殺してはいけないというテーマだけではなくて、生活全般に関して思います。

徳永(娘):
問いを出す出さないということに焦点を置くのではなくて、終局的に問いと向き合い続けることに本質をおいているということですか?

松山さん:
安易に決めつけない、答えを求めないということも重要ですね。もやもやさせておくだけっていうのも大事だと思います。
今はすぐにgoogleが教えてくれるけれど、そうではない自分の納得感が必要な問いというのもいっぱいあるので。モヤモヤっとさせておいて、人生のある瞬間に自分の中でパチッと答えがくるかもしれないですしね。

宗教と文化による価値観の違いについて


徳永(娘):
宗教によって絶対的に変わる価値観ってなんだという疑問があります。イスラム教の授業を受けた時に、イスラム過激主義に対して、イスラム教だから皆イスラム原理主義をもっているとかISに所属しているイメージに結びつけるのではなくって、イスラム教の中にもいろんな人がいて、自分たちと共感し得る習慣や感覚がたくさんあると感じることが出来ました。

宗教といわれるものはその土地から派生する文化と混ざりあっていたりとか、家族がイスラム教を信仰していたから子供もイスラム教を信仰するとか、自分の人生観からではなく習慣として宗教に所属している人も多くいるのだろうと思います。そうすると文化とか習慣から切り離して宗教を考えた場合、宗教が持っている絶対的な価値観ってなんだろうなと疑問になったんです。

松山:
生活や文化から切り離した宗教って、考えられないと思うんですね。どうしても生活や文化に影響されてしまうし、例えばカトリックにしても、フィリピンのカトリックと南米のカトリックとヴァティカンのカトリックは全く違うんですよ。その国の文化とか習慣とかは、たとえ一神教だとしてもものすごく左右される。そのいろんな影響を除いたあとピュアな宗教は何かっていうことですか?

徳永(娘):
例えば、死生観が変わるとか、神様が常に生活の中でいるっていうことで、世界の見え方が変わるのか、宗教が人にもたらす何か絶対的なものってなんだろうなと思います。

松山:
まず一つは、調子がいい時ってあまり役立たない。すごく傷ついたり凹んだり大変な思いをしたときに、その指針を示してくれるものが宗教であると思います。昔の人からずっと人間は色んな経験をしているんだけれど、同じような経験をしている人もいっぱいいて、物の見方や対処の仕方という知恵がある。

もう一つが安心と規律だと思います。ぼやっと生きているのと、神様にいつもみられているとか、何か第三者から支えられているという安心と規律が宗教から得られると思います。

妙心寺の中には、四十六の小さなお寺があります。1か月おきに、妙心寺の開山様が今でも生きていらっしゃるという想定のもと、般若心経を唱えてお像のお顔を拭いて、おかゆを作ってお膳を出します。お昼ご飯も作ってお膳を出して夜もお勤めして、ずっと1か月間そのお堂に泊まり込んでやるお勤めがあります。

誤解を恐れずに言うと、本気で怖いんですよ。一人でやるんですが、やったことない人は、どうせ一人でやるんだからバレないし、手を抜いているんだろう?ご飯作ってないんでしょい?て言われることもあるのですが、さぼってやろうとか、手を抜いてやろうなんて気は全くおきません。

朝4時にヘッドライトつけてお湯をもっていくんですが、真っ暗なお堂の奥に開山様のお像があって、静寂の中、私と開山様だけの空間。とにかく、見られている感が半端ないんです。誤魔化してやろうとかサボってやろうとか1ミリもおこらない。
そういう経験ってすごく大事で、常にみられているというか、自分は騙せないという思いをもてるというのが、宗教に関わっていてそれが自分の中の規律として役立っていると思います。

人それぞれの立場があるけれども、社会人の経験だけでは経験できない、絶対的な安心感と規律は宗教がもたらすものだと思っています。

徳永(母娘):
松山さん!色々なことが、私たちの中ですべて腑に落ちました。長時間に渡り、お話を聞いていただきましてありがとうございます。

松山さん:また京都にお迎えできることを楽しみにしております。


インタビュー後記


私たちでは答えが出ないことを、松山大耕さんという方を通して有難い導きがあり、どんな質問にも逃げずに答えてくれる姿勢から、経験と鍛錬とを成しえた方だからこそのご発言だと伝わってきた。
若い世代には、このような見本となる大人がいてくれることが一番の助言・指導になるのだろう。
次世代に残せるものは、自分の生きた足跡で、足跡が途切れた先を次世代が繋いでくれるのだと思う。頼もしい限りだ。


【インタビュー後の母娘の会話】

母「松山さんのお話を聞いて、とてもすっきりした気分。結局答えは自分の中で見つけるんだけど、その答えのヒントをくれる人ってとっても大切だよね。誰が話すかってとても重要だし、この人に話して欲しいって人になれるように、年を重ねていきたいな。
母娘では答えが出ないことも、こうやって誰かに入ってもらって導いてもらえて、しかもそれが松山さんだなんて、本当に有難いことだね。」

娘「うん。なぜ人を殺してはいけないのか?っていう問いは、人として当然生まれえる問いだけど、時として大人の人ってそういう純粋な問いに蓋をしてしまう。でも松山さんのお話を伺って、自分の中で生まれてきた問いに対して時間がかかってもいいから思考し続けることや誰かと議論する大切さと、自分ではない誰かの問いに対しても真摯に向き合う受容性について学ぶことができたと思う。
いつか子供ができた時に、私も松山さんのように一つ一つの問いに向き合えるような大人になれたらいいなって思った。」


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