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介護の中で自身を探す♪ ファースト

平成23年から26年に外郭団体解散に伴い大規模な工事が数か所 ほぼ同時期に行われた。
その一つが、博多駅周辺の民間灯の街路灯工事。
工期日程が大幅に変わり、新年明けには工事着工という環境を作らなければならなかった。
各担当者と密に打ち合わせの反面、通常工事と違ったため提出書類も山積みだった。
年賀状書きを返上して、電力の変更届を書き上げるという作業を年末年始に。
この頃は、インターネットは公的にはあまり進まず 手書きだった。
有難かったのは、偶然だったけれど この大きな工事の時期に「天神西通り」と「親不孝通り」のクリスマスイルミネーション設置工事が弊社の手から離れた頃でした。
これが重なっていたら、地獄のような年末年始になっていたでしょう。
思えば、この頃からプライベートの季節の挨拶状を諦めざるを得ない日々の始まりだった。

母は、休日にそれをしなければならないのか・・・私と話す時間はないのか?と言わんばかりに、記入作業をする私のそばにいた。
この頃 既に母は私に自分の異変を知らせていたのかもしれない。
パートナーと出掛けている時も、ホテル生活をしている時も、他の身内の世話をしている時も、当時はうるさいくらいに電話をかけてきていた。

助けて・・・。

そんな声だったのかもしれない。
自身の異変に向き合うのが怖かったのかもしれないが、確かに私に助けを求めるかの如く それまでと違い、出かけると即座に電話をよこしていた。

そばにいると安堵の表情だった。

午前5時30分に起きる癖がついた。
起きて 仏壇に手を合わせ、一階に降りて雨戸を開け、事務所へ行き 事務所の下準備をして自宅へ戻り・・・母のおむつを替えて、2階へ上がり、母と他家族の朝食を作り、一階へ降りて 母に食事をさせて、2階ヘ上がり、化粧をし着替えて、事務所へ行き 掃除をして お茶を準備し、自宅へ戻り 9じ前後に介護施設(デイケアセンター)へ行くバスへ母を乗せて、仕事開始。
介護施設へ行かないときは、仕事途中で昼食を共にしオムツ交換。
仕事を終えて、雨戸を閉め 着替えて、母のおむつ交換をして、家族の夕飯の支度をして 母と食事をして、身体を拭いてやり 就寝前のおむつ交換をして・・・夕食の片付けをして風呂に入り・・・休憩して・・・就寝。
日によって早朝や夕方に近所へ買い物へ。

こんな日々が続くと同時に、新たに会社新体制スタート。
新たな生活の中、怒鳴り声の中、母の介護は続いた。
新体制の中と介護で自身を見失う。
新体制に、跡継ぎの位置はぼやけていた。
新旧をどのように活かしながら進めていくか?かなりの時間を要したが、新体制は思わぬ方向へ向かっていた。
こんな日々が2年続いた。
この頃 体重は15キロ落ちた。
更年期障害も同時発生だった。
人間関係が大きく変わり始めていた。

どうするcohiba?

そんな自身を見失うスレスレのところで母が階段から落ちる。
同じ日に他の家族は手術で入院。
母は暫くして褥瘡悪化による合併症併発兆候により 入院。
これが母との第一段階の別れだった。
押しつぶされそうな中、母を世話してやれない悲しさと申し訳なさ、そして今までにない寂しさは終わることはなかった。
母は、新体制スタートを気にしながらの入院生活スタートだった。
振り返れば、母と私の体調・心境・環境は似ていたかもしれない。
今の思い出は、ほんの少し病状悪化しても歩く事はできた母と、大人になって自宅介護で一緒にお風呂に入ったことかな。
最後の母との入浴時間の日々だった。
母に手すりを掴ませ、バスタブに入れたり・・・今思うと愛おしい時間だった。

この頃の私の救いはソレで、臍の緒は生まれた時切られても こんなところで親子は繋がっているということ。
親の痛みは子の痛み
子の痛みは、親の痛み。
何かしら 片側に起こると もう一方も何か起きる。
母が、あなたに何かあるとわかるわよ♪と笑っていたことを
若い頃は怪訝に思っていたけれど、落ち着いた生活リズムを得ると
「まさしく♪」と思えた。

忘れられないことは、東京オリンピックが日本で再度あると分かった時に、孫とキャナルシティへ行くのにタクシーで。
その車内で、おばあちゃんも(オリンピックに)一緒に行こうね!に・・・

私の横で母は窓の外を見つめながら寂しい顔で囁いた。

その頃には、おばあちゃんは生きてるかな?

耳を疑った。
驚いた。
何を言っているのか全く掴めなかった。
まさか 母にとって残酷な日々がくることを伝えていると誰が思っただろう。
この日も永遠に忘れる事はない。