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亡き伯母が遺してくれたこと。町医者・市民病院ではわからなかったポリポーシス

伯母は腫瘍との闘いを繰り返していた

母の姉は、とても元気なひとで、いつもチャキチャキしていた。子どもたち(わたしにとっては従姉弟妹たち)を導くというのかな、お尻をたたいて、みんなを、それぞれの人生の向かうべき方向へ走らせた頼もしい“母親”、姪の側からはそんな印象をもっている。彼女の弱音や弱みなんかを、わたしは知らない。

そんな伯母は、たしか40歳前後で脳腫瘍の摘出をしたと思う。鼻から管で、と、とても簡単そうに言っていたから、子どもだったわたしは、それをそのままの温度感で「簡単そうなもの」と思っていた。しかし、成長するにしたがい少しずつ疎遠になっていた伯母が、昨年末亡くなり、そうではなかったことを知った。脳腫瘍の摘出後、なんどか転移をくり返し、最後もポンで亡くなったのだ。最初の腫瘍から20数年。亡くなるわずか1週間まえに、容体が悪いことを伝え聞いた。それくらい疎遠になっていた伯母だった。急のことに実感がわかず、「死」とは何なのか「病気」とは何なのか、わたしはしばらく思考の渦に深く取り込まれてしまいます。

町医者・市民病院ではわからなかったポリポーシス

最後のポンが、どこからの転移だったのか、原発巣がどこだったのか、疑問に思ってくれたのは従妹の夫だった。夫婦ともに、医療従事者だ。ひとつめの幸運はここにあったのだと思う。このちいさな幸運が、もう少し手前で作用してくれていたら――、と思わずにはいられないが、バトンは伯母から従姉弟妹たちへと、託された。わたしたち世代へと託されたんだ、と、その話を聞いてわたしは思った。

従妹の夫の疑問からわかったことは、伯母の胃にポリープがたくさんあったことだった。そして、それが「ポリポーシス」だったことだ。皮肉なことに、伯母自身、30代後半ごろすでに“胃にたくさんポリープがあること”を知っていた。しかし、それが「ポリポーシス」という名前で、いずれポン化するということや、その多数のポリープのうちどれかがすでにポン化しているかもしれないということを、町の医者や市民病院の医師でさえも知らなかった。詳しいことはわからないが、ポリポーシスの場合のポン化細胞の“見方”は少しちがうらしい。それに、今もってポリポーシスを知らない医者は多い。

果たして、「数は多いけど、まだ大丈夫だろうから」と経過観察にされた伯母は、見逃されたポン化細胞の転移により手遅れとなってしまったのです。

伯母から渡されたバトン(従姉からの電話)

伯母のお通夜へ向かう車の中で、「死」とは何なのか、死んだらどこへ行くのか、わたしは思考の渦におぼれそうになっていました。病気で死ぬ、とはどういうことなのか。細胞が不具合を起こす、そして内臓が通常運転できなくなる、そのメカニズムとは。また、経験や、心に蓄積された痛みや悲しみや喜びや希望、絶望はどこへいくのかと。そんなことを考える一方、そういえば母もポンで胃を全摘していたな、ということを思い出し、そろそろポン保険を見直そう。年明けに見直そう、と現実的なことも考えていました。

ポリポーシスについてはじめて話を聞いたのは、伯母のお通夜とお葬式が終わり、年が明けて、数か月経ったころでした。四十九日や納骨などが終わり落ち着いたのでしょう、従姉から電話がかかってきました。お葬式でしか会わなくなっていた従姉弟妹たちなので、どんな用件なのか、正直なところ見当がつかなかった。でも、二言三言話せば、その重大さがわかる。わたしたちは、ポリポーシスという病気に、従姉妹弟みんなで向き合っていくんだ。向き合うチャンスを、伯母がくれたんだ。疎遠になってしまっていた従姉妹弟たちを、こうして伯母がふたたび繋いでくれたんだ。

責任感の強かっただろう伯母は、その死後でさえも、わたしたち皆のことを案じてくれていたに違いない。彼女の想いのおかげで、こうして、わたしは自分がポリポーシスをもっていることに気づくことができたのです。ここには幸運と、そして感謝の気もちしかありません。

そして、25年前に遡る 母の手術の真相

ここで、もうひとつの答えが出ました。
“胃にたくさんポリープがあ”り、そのうちのひとつが大きくなり痛みはじめたため、胃を全摘することになった母。やはり、当時の医師たちもこれが何なのかわからないまま、切るという方向になったそうです。大きさが異常なため胃の出口をふさいでしまい痛みを生じさせたとのこと、切除した細胞のポンの確定は出ないまま(母は聞かないまま)今日まできました。

もしかしたらポンではなかったのかもしれない。ポンでなかったのなら、全摘までしなくてよかったのかもしれない。そんな“不信”が、少なからず母にはあったように思います。胃が無くなるので、食べる量が減り、体力が減る。そこにはやっぱり体験した本人にしかわからない辛さがあったに違いありません。不要の苦しみだったのではないか、そんな不信を、やっと拭い去れるときがきたのかもしれない。これから同じような大変な毎日を送ることになる娘を見ていかなければならないから、手放しで喜べるようなことではないかもしれません。すぐに消化できる思いであるはずもない。25年は、長い。でも、手術をしたことで今生きられているということが、図らずも証明された。伯母のこともあるので複雑ですが、母がもうあのときの手術を疑わなくて済むということを、娘としては嬉しく思います。






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