初稿の連載小説「もっと遠くへ」3-4
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壁の向こう側では、早くも何かが始まるそんな気がして、それを互いに言わずとも感じていましたので、黙って、壁に男二人並んで、耳を当てていました。
江戸のボロ長屋から一変して、東京のボロアパートに舞台を移しましたが、薄い壁に耳を当てていると、そこに大きな違いなどあってないような、そんな気さえしてくるのです。
少しばかり水気を含んだ粘着性の、その音を聞きながら、
「幸せもんやな」
と、消え入るような細い声で亮介は言いました。
「隣人のことですか」
そう聞きましたら、壁から離れて、先程まで芝浜を上演していた床(座布団代わりに枕を敷いていた)に腰を下ろし、
「それもある、これを隣で聞けるお前も幸せで、隣の男女もきっと幸せで、この家に来れた俺も幸せで、」
と、言いました。
「でも、悲劇でしたね」
亮介の顔色が変わりました。
「悲劇?」
「はい、芝浜は途中で終わってしまって、悔しかったでしょう」
先程までの亮介の語りを思い出し、少し哀れに思えたのです。ですが、亮介の返事は意外なものでしたので、今でも鮮明に覚えています。
「阿呆か、お前は」
一つ間をおいて、彼は答えます。
「もし、あそこで終わってたら、それは悲劇以外の何物でもない。そりゃそうや。無念ってもんや」
「はい、実にいいところでしたしね」
「まあな。できることならあのまま最後までいきたかった。でもな、」
既に、隣人の事など二人の頭のどこにもありませんでした。
「その後が肝心やねん。俺の顔を見て、お前は笑ったな。なんや間抜け顔に見えたんかしらんけど、人の顔見ておもろかったって言うたよな」
「そりゃ、あんな顔されたら誰だって笑いますよ」
亮介は、失礼やなと微笑って、
「そのあと、俺らは隣人の物音に耳を傾けて壁にべったり張り付いて、傍から見たらただの阿保やろ」
思い返すと、また可笑しくなって苦笑した。
「つまり、お前が言う悲劇ってもんは、ある、ほんの一部分を凝視したにすぎんってことや。もっと広い目で見れば、それは喜劇やねん、喜劇になんねん」
喜劇になる…。続けて、喜劇とは悲劇の中でこそ生まれるものだとも言っていました。
「まあ、もっと言うたら、さっきの出来事も、喜劇ではないと思うけどな。結局は考え方というか、物の見方次第で、その二つは表裏一体なんやと思うわ」
この時、僕は彼が楽観的である本質はここにあるのだと理解しました。悲劇的な状況で人生を諦めてしまったら、その人生は本当の意味で悲劇になってしまう。
常に「悲劇的なもの」から、「喜劇的になりうるもの」を探すこと。これが大切なのだと。
とするならば、亮介が言う、物の見方と言うものをもっと広げてみて見れば、僕たちが生きているこの社会全体がつまりは悲劇そのものであり、僕たちがこの「悲劇的な世の中」に生まれてきた事自体も、まさしく悲劇になり、更にそこで生きていくという行為は「悲劇を追求する行為」になるのではないか、とも思う。
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続きは9月8日(金)です。
お待ちください。